戦争の世界史 上

戦争の世界史(上) (中公文庫)

戦争の世界史(上) (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

人類はいかにして軍事力の強化を追求し、技術・軍事組織・人間社会の均衡はどのように変遷してきたか。各専門分野を自在に横断し、巨大な全体像を描きだす野心的世界史。上巻は古代文明における軍事技術の発達から、仏革命と英産業革命が及ぼした影響まで。

 以前からちょっと読みたいと思っていたけど、単行本は流石に高すぎて買う気がしなかったのだけど、思いがけず文庫化したので早速購入。しかし冒頭の「序言」で「疫病と世界史」の姉妹編と書いてあったので、そういえばそれも読みそびれていたし、それならそっちも読まなければと思ってそっちを買って読んだら、色々新しく知る知見がある面白い内容だけど軽く読める内容でなかったから、続けざまにこれを読もうという気も起きずにしばらく積んでいたら、いつの間にやら一年の3分の2近くが経過してしまっていたが、ようやく上巻読了。
 「戦争の産業化」が主題。この戦争の産業化とは、軍の質の向上(例えば兵器の発展、軍の運用方法の効率化などの戦場での実効性)とコストの削減(質向上で少ない兵員で足りるようになる)という意味みたいだな。
 アッカドサルゴンの記録に残る初期の国家の軍隊(紀元前2250年頃)は、遠征をして掠奪をしながら農業地帯を平らげては、その地を数年あるいは数十年にわたって荒廃させるある意味伝染病のようなものだったが、後のクセルクセス王の軍隊では(紀元前480年頃)、一定の割合を租税や年貢として徴収する、共生状態なものとなった。これは支配者の側からすれば、軍隊を速く遠くまで動かすことができ、良い状態で戦闘地まで届けることができるようになるというメリットがあり、被支配者側としても軍隊が何年、何十年に一回掠奪に来るよりも毎年一定の割合の収穫物を出すほうが、その支払いも辛かったとは思うが、まだ好ましいものであった。
 アッシリアの軍隊、旧約聖書アッシリアが悪役に書かれていることもあって評価されることが少ないが、馬にまたがること、馬上からの弓射などを発明した集団とも考えられており、軍隊の新しい装備や編成を開発し、遠征に攻城機械を積んだ輜重隊を引き連れていくことをした、それまでにない強力で規律に優れた軍隊であった。しかし皮肉にもそうして乗馬技法が開発されたことで、それを会得した周辺地域のステップ遊牧民に滅ぼされることになった。
 そしてその騎馬革命で、文明化された諸国民が戦場に繰り出せる軍隊に比べて、ステップの戦士ははるかに安価ではるかに機動力に飛んだ部隊を組めた。そこでその後長きに渡って文明の王は、自然の障壁を持たない辺境の領土を守るために、保護料を支払って別の部族民を雇うことで国境を保護してもらうという方策をとることになる。しかしその部族民にとって長期的に見て利益のある毎年一定の保護料があるものの、短期的に見ると掠奪のほうがずっと大きな収入だったので、しばしば誘惑に駆られて寝返ることもあった。
 また防衛の弱体化が起こった地域にはステップの民が流れ込み、そうして国が崩壊すると、そこを占領して居座り略奪者から支配者への転身を遂げることもあったが、そうすると今度は利益のために守る側へと回ることになるが、時間がたつとその支配者層がステップの戦士としての性質を失い、再び文明と辺境の部族民という対立が起こるというサイクルが一つのパターンとしてある。
 装甲騎馬戦士が登場し、優越した戦闘力が手の込んだ装備をつけ訓練をつんだ少数の戦士に掌握され、その状態が長く続いたことで、そうした戦士が中間で農耕余剰を奪うことを中央政府が阻止することが困難になったことで「封建制」となった。しかしイランや地中海沿岸の地域ではかつての帝国的統治形態や統治意欲が残っていて、それは後に軍事技術における力のバランスが中央集権的行政形態に有利になったときに中央集権を再建するためのモデルと先例として機能したので、根っからの封建制は起こらなかった。やはり、こうした先例や伝統のようなものがあると、そうした地域はまとまりやすく、中央集権に回帰しやすいのかね。
 王侯たちが自分の思いのままに支配することができない様々な市場での物財の流れに依存し、その依存の度合いは時代を経るごとに高まっていった。戦争やその他公共事業のために資源やマンパワーを集結させるためには金銭を支払うという方法が、他のどんな手段よりも有効であることがわかってきた。そして軍事を思いのままにする権力(国家)と、お金を思いのままにする権力(商人)は敵意を抱きあっていたが、それを和解させ一体化する様式を西ヨーロッパが発明したことで、西ヨーロッパは覇権を握ることとなった。
 中国、宋の時代、11世紀後半に製鉄業の生産高は驚異的な伸びを見せ、1064年には9万400トン、1074年には12万6500トンと驚くほどの多数の鉄や鋼が生産されていた。これがどれくらいの良貨と言うと、産業革命が始まり、コークス燃料が使われ始めていた1788年のイングランドおよびウェールズの総製鉄量が7万6000トンと、700年前の中国の6割程度であることからその量の膨大さがよくわかり、思わず目を疑ってしまうほど。しかしその11世紀の開封を中心とする経済圏の発展も、政策の変化なのか不明だが何らかの状況の変化によって、12世紀には衰退に転じてしまった。
 商業や製造業で尋常でない富を蓄積するのは不道徳と一般の中国人の多くが考えており、官僚の儒教的な思想もそうだったため、企業家と官が相対したとき常に官が優位だった。こうした考えが発展を阻害したということもできるし、実際そうなのかもしれないが、大企業の力がますます強まっていく時代で、この先窮乏することがわかっている先進国の非エリート層だからそう感じてしまうのかもしれないが、個人的にはそうした力関係をうらやましく見てしまう。
 11〜15世紀にかけてイスラム教徒、キリスト教徒、そして中国で、乗組員間の利潤の分配、経営責任の分担、損失保険の組織の仕方などの船の経営をめぐる規則、契約の履行不履行をめぐる紛争の裁定方法など、様々な規則の多くが合致するようになって長距離貿易がしやすくなり、全ユーラシアが貿易で結ばれる度合いが高まっていった。
 13世紀ローマ教会の内部行政は、科挙制度を基礎とする中国の文官官僚制に似たところ――例えば高いレベルの聖職者には教養が必要とされ、世襲制でなく出世には能力が必要だったところなど――があった。また儒教と同じくキリスト教は市場原理に敵対的で、聖職者と軍人の間には、中国の官僚と軍人の間と同じような不信感がその程度は弱いけれどあった。そのため、もし教皇君主国の理想が達成されていたならば、中国と同じように文官優位体制となっただろう。しかし現実には多数の国家・領地に分かれて、相互に領土や裁判管轄権をめぐる紛糾が絶えなかった。そんな政治状況の中で、市場志向的行動様式と軍事思考的行動様式の融合がなされた。
 その組織的暴力の商業化が力強く登場し大きな影響を及ぼすようになったのは、14世紀にイタリア諸都市で傭兵軍隊が標準になったときである。
 14世紀頃に、操船が優しく冬季でも夏季と同様の安全性で海上を航行できる船が登場したことによって、(当時の先進地帯イタリアから見て)東の黒海から西の北海までが繋がり、一つの海上空間となった。それはヨーロッパ大陸を豊かにしたが、それと同時に自分たちの手が届かない遠方の市場での出来事の影響を受けることになり、遠い市場での価格や需要の変動が多くの民衆に厳しい生活苦をもたらすことになった。
 はじめは都市国家は傭兵団と1つの作戦の間だけというような短期的な契約を結んでいたが、そうした短期の契約だと傭兵団がその後に仕事を見つけるまでの危険な端境期が生まれて、上手く仕事を見つけられなければ彼らが掠奪にはしる恐れもあり、そして短期の契約だと後二的になるかもしれないのだから感情面での連帯は望めず、またそうした1階の戦闘での契約だと傭兵団のキャプテンは兵員や武器・防具の消耗を嫌うのであまり頼りにすることができないという問題もあったため、イタリアの諸都市は特定のキャプテン(傭兵団単位)と数年単位で契約することとなった。そして、それが繰り返されて特定のキャプテンが特定の都市に生涯仕えることも普通のこととなった。この長期契約によって、仕事の質の向上と雇用の安定という双方にとってのメリットがあった。
 15世紀初頭からイタリア諸都市でそうした軍事請負契約が行われ始めた。フィレンツェは、そうした軍隊の新しい形式を取り入れるのが遅れた都市で、クーデターを恐れて職業専門家を雇う費用を惜しんで、戦場での実効性を犠牲にした。
 実際にクーデターを起こされ軍人専制となったミラノがあり、その運命を免れたヴェネツィアは複数の中の悪いキャプテンの契約して互いに牽制させ、また功をあげたキャプテンに物惜しみせず名誉も贈り物も与え、同都市の貴族階級との結婚話をまとめたてとりこんだりした。そのように運用するのが難しい軍事態勢だったこともあって、その恐れは理由がないことでもなかった
 15世紀後半にいたって、大きな傭兵団のキャプテンと契約するのではなく、より小さな戦闘単位と契約して、それとは別にキャプテンと契約することで、軍事組織内でキャプテンが絶対ということではなくなった。そのことで政治の実質的統制が及ぶようになり、クーデターは深刻な脅威でなくなった。
 小数の都市と少数の大部隊を率いるキャプテンとが契約していたのが、少数の都市国家と多数の小さな戦闘単位(3〜6人からなる「ランス」)と契約するようになったことで市場は雇い主(国家)有利の状況になった。また、傭兵が長期の契約を結ぶようになったことで自分と雇い主の利益が密接に結びついたことでクーデターなど不安定な行為がとられるリスクが減じた。そうして文民と軍人との関係が安定し、傭兵と国家が複雑な結びつきを持つようになった。
 そのような軍民間の協調があったことで、この時代イタリアの主要都市国家が列強の一角を占めることになり、例えば16世紀初頭にヴェネツィアはフランス国王、神聖ローマ帝国皇帝、スペイン国王、ローマ教皇などによるカンブレー同盟の攻撃にあってもその攻撃を辛くも食い止めた。
 マキャベリはその後、イタリア諸都市が外国勢力に食い荒らされるようになってきたときに傭兵部隊の制度を批判し、19世紀20世紀の歴史家は自分の体験から市民兵愛国心を強調する彼の論を説得的に感じていたが、市民兵から職業軍人に移行されている現代ではイタリア諸都市の選択は本書を見れば分かるようにその後の軍隊の歴史に直接繋がっている先駆的なものだった。イタリアが繁栄を誇った時代の後に、フランスがスイス傭兵を雇ったことで軍事的優位を得たことからも明らかなように、有効だからそうした後追いがなされた。
 長距離貿易を成功させるには外交交渉能力、戦闘能力、金勘定の能力を微妙に組み合わせた能力が必要とされ、そのためイタリアの大都市ではそうした能力や技術が発達し、、それがやがてヨーロッパを他の地域から区別することになる新しい新しい外交と戦争のパターンを生み出した。
 しかしそうした栄華を誇ったイタリア諸国家だが、運搬可能な攻城砲の発明されたことでその力が弱められた。そのように攻城砲の登場により領邦国家などの力が弱められた一方で、その大砲の高いコストが支払える大国が力が増した。
 その新兵器に対抗するイタリア築城術が早々に発明されて、地方の群小勢力に再び対抗する手段を与えたが、そうした防御施設を作るのにも多くの大砲を用意するにも大きなコストが必要とされた。
 ムガール帝国(インド)、オスマン帝国(トルコ)、モスクワ大公国というこれら3つの火薬帝国は、ひとたび中央政府の軍事的優位が決定的になると、潜在的に危険なものとみなして発展させることをしなかった。しかしヨーロッパでは多くの相対する国々がいたため、多くの兵器や訓練方法を発展させて、発明されればその技術はただちに広まることになった。
 手荒な公正価格での買い上げは、多くの小さな企業から買い叩くことは不可能だったため大きな企業がターゲットとなる。そのため手工業者や小規模な売買は反映するが、大規模な民間企業がなくなるため、大事業での技術革新は起こらず、技術革新はそうした小規模なところでもやれる範囲でしか起こらなくなる。
 17世紀に変化したフランスやオーストラリアなどアルプス以北の諸国家における軍隊の経営はヨーロッパ史の軍事と治国策の大きな歴史の転換点となったが、それは15世紀のイタリア都市国家が用いていた方法、つまり補給の統制権は文官が握り、税金から将兵の給料を払い、歩兵・騎兵・砲兵を分けることなどであった。しかし中世イタリアの軍事組織がそんなに先進的な存在だとはヨーロッパ史に詳しくないので、ちょっと意外な事実だった。
 17世紀頃、マウリッツが行った兵への徹底した教練を行わせるということには、錬度を高めるという効果の他にも、兵の暇をなくして、兵の規律を維持するという効果があった。
 こうした教練という新技法は、ローマの文献から見出したものだったが、こうした集団に同じことを反復させることで、その集団に強い社会的紐帯の意識を呼び起こした。そのことで軍隊は団結し、強い仲間意識を持ったコミュニティとなった。
 このことは伝統的社会集団が市場を介する非人格的社会関係の拡大で、崩壊あるいはそれに至らずとも、有効性が疑われていたという当時の社会状況に提供された。そしてルイ14世以降、各国の軍隊が長期の徴募、最徴募をよしとするようになってその軍隊の戦闘単位に何年もつとめて同輩の古参と体験を共有するようになったことことで、こうした教練を積んだ小隊・中隊という人工のコミュニティがその隊に所属するメンバーにとって第一次集団(まずその人が第一に所属を意識する集団みたいなことかな?例えばかつては村とかだったのが、そうした時代に教練を重ねて何年も過ごし同じ釜の飯を食うことでその小隊・中隊がそれにとってかわった)となった。
 この教練という方式が発見・発明されて、兵たちが軍隊の戦闘単位がそうした第一次集団になっていったことで市場を介する非人格的社会関係の拡大したことで、昔風の価値観が残っていた軍隊は、そうした社会に馴染めなくなった人たちにとって名誉ある避難所になった。
 そうした教練が日常になることでヨーロッパ諸国の軍隊は剛勇無双な戦いぶりを見せることになる。例えば数十メートル隔てて敵味方が列を組み銃を撃ち合い敵味方が死んでいくのに列を崩さないなど本能・理性どちらでも理屈が付かない行動を平然ととれるようになった。また場所的に遠くはなれた上官への服従を当然のこととして、そうした場所から来た命令を実行することができるようになった。
 この教練という技術はヨーロッパの軍隊を、他には類を見ない実効的戦力と柔軟性を兼ね備えたものにした。
 こうした教練が生み出した結果は、『たしかに十七世紀の最大の達成のひとつであり、同時代のさまざまな分野での画期的前進に比べても、その最大のものである近代科学の誕生に比べてすら、引けを取らない重大事件だったといえるだろう。』(P269)
 この教練という技術がどのくらい強力な効果なのかというのは、ヨーロッパがアジアで勢力を広めるのに現地人を徴募して、教練を加えた軍隊は少勢ではあっても、現地王侯の軍隊に対して歴然たる優位を示し、領域的支配権を勝ち取り、またその領土を拡大していけたことからも良くわかる。その劇的な例としては、784人のヨーロッパ兵と10門の野砲、ヨーロッパ式に訓練され、装備された2100人のインド兵で兵力5万の敵軍を潰乱させた1757年のブラッシーの戦いがある。
 この教練の発明で国王は従順で強力な軍隊を持てるようになったことで、国内の治安が良くなり、そのことで国富が高まり、税収もまた増加し常備軍を維持できるようになった。
 また別々の銃を使っているのでは同じ動作もできないし不便だから、軍隊の武器・装備は標準化されて、そのことでコストも下げられたが、それは同時に武器の設計が改良されることを阻害されることになった。そのため例えばイギリス軍において1690年から150年間に渡って、マイナーな改良が加えられただけの同様のマスケット銃が使われていた。しかもそのマスケット銃は1730年からの100年間はそうしたマイナーな改良もなされていなかった。こんなに長い期間兵器の発展がヨーロッパでもストップしていたという事実は、ずっと武器が進歩し続けていたというイメージがあるからちょっと意外だった。
 ヨーロッパ以外には軍隊の運営権を握っている人々が貿易商人の利益に同情的だったり、彼らの損害を憂慮したりするところはなかった。というのは、現在ではそうした政府が商業のことを考えて外国との交易について気にするというのがスタンダードだと思うので、当時はそうした国家がヨーロッパ諸国の他になかったとは意外だ。
 等高線が発明され、それを使って作成された正確な地図を使い、書面による命令などを組み合わせることで軍隊の運動を統制することで、かつて実効的式の上限とされていた5万の兵員の3、4倍を統制できるようになった。
 7年戦争による敗北の衝撃で、革命前のフランスでは砲兵などで大きな変革が行われていた。そのことと兵員の士気の高さがナポレオン時代のフランスの連戦連勝につながった。
 しかしナポレオン時代が終焉を迎える、1815年には大国は野砲などがフランスの水準に追いつき、そして欧州各国が独立を取り戻した後は1850年までさらなる大きな改良は生まれなかった。そのような大きな衝撃を与えるものがないと軍隊の急進的変革は起こらない。
 文章の命令や記録の重要性が増した結果、フランスでは1787年の法令で下士官クラスの人間にも識字スキルが必要とされて、読み書きを教えるようになっていた。そのことは革命派のプロパガンダ下士官たちの考えに影響を与える要因となった。
 フランス革命戦争で英国は深刻な経済危機に何度も陥り、その災厄を早期に克服するため、国民が不換紙幣を受け入れ、所得税が課されるのを受け入れたこと、そして大陸への販路が制約されたことでラテンアメリカとレヴァントに新しい輸出市場を開拓したこと、戦時にそうした改革がなされ、また同盟国に補助金を与えイギリスの兵器など多くの物品を交わせたり自分たちが消費するために多くの工業製品が必要になったことで完全雇用が達成され、工業化が促進された。そのことで英国は戦後に好景気を迎えた。