妻を帽子と間違えた男

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人―脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。

 脳神経科医の著者が出会った、脳の機能の部分的な異状によって想像ですら思いつかないような症例と、それに悩まされる人たちについての描く本。著者の本を読むのは「火星の人類学者」以来、あれは面白かったけど一編あたりの分量が多くてゆっくりにしか読みすすめられなかったので、もっと多い章数のこの本を読了。
 いくつもの興味深いエピソードが収録されていて、読んでいると普段当たり前だと思っていることが、当たり前ではないと思い知らされる。例えば人格・性格とかの不確かさなどは、その症状が自分のパーソナリティと不可分となっているチック症の人や、脳の器質的な異状によってもたらされる性格の変化の症例を見たりすると、そのことが強く実感させられる。ありきたりな言葉だが、この著者の本は、人体(脳)の神秘だったり、不可思議さを感じさせられる。
 「妻と帽子を間違えた男」表題にもなった症例。手袋やバラを見て、その具体的な形は描写できるが、それを手袋だ、バラだと一見して判別できないことが書かれているけど、手袋やバラという概念を忘れているわけでもないのに、それをわからない、見たものを事物と関連付けることができない、という状況は普通は想像すらできないもので困惑してしまう。彼は一目見ただけでは何を見ているのかが判別できず、見ているものの中からいくつかの特徴など手がかりを見つけて、その手がかりを元に自分が何を見ているのかを推測していく。
 そして他の症例もそうだけど、一言でその症例をまとめることができないものだから、それにも困惑してしまう。
 「ただよう船乗り」コルサルコフ症候群。数分間も記憶が持続しない、19歳以降の記憶を失い、記憶を蓄積できなくなり、ものごとを数秒と覚えていられなくなった男ジミー。自分がその後に経験したことを全て失い、そして記憶を失って以後に体験した記憶も残らず、十代であったころの記憶と性格だけしか残っていない。しかしかすかな記憶の残響のようなものはあって、それ以後の記憶も断片的には覚えているようだし、うっすらと記憶できていることもあるようだが、数分前のことと何ヶ月も前も区別できないし、そうした記憶が「19歳の自分」を揺るがすことはないようだ。
 快活な青年の気性と人格で、中年の肉体、一瞬の記憶しかもてない。そんな彼を見て、著者は「胸がしめつけられる思いだった」と言っているように本人が明るく、30年の日々を失い、それを自覚できない現在の状況を本人がさっぱり理解していないという事態を見ると、読んでいるだけの私でも胸が痛むので、直接目の当たりにしている著者がそういう思いにとらわれるのも当然だろう。
 しかしそうした記憶の問題は変わらなくても、そうした日々が続くことで無意識に適用しているのか人間的・精神的には変化して、記憶が亡くなったことにいらだつこともなく、落ち着いた人間となっているようで、そうした記憶の蓄積がなくても無意識の蓄積の成果なのかは知らないが変化はあるようだ。
 「からだのないクリスチーナ」固有感覚がなくなり、無意識に・自然に身体を動かすことができなくなり、意識して身体を律し、動かすことをしなければ、動いたり・座ったりすることができなくなった。自分が意識して、自分の身体をマリオネットのように動かさなければならなくなった。
 そうした身体の状況になった当初は、眼でどうなっているか測っているので、眼を閉じると身体のバランスを崩れおちてしまった。その後、徐々にスムーズにできる動けるようになったが、声も体の姿勢も意識して、自然ではなく、技巧によって作られたものだったので、日常的な動作に大変な注意を払わなければならない。
 その状態を適切に表現する言葉がなく、その状態の苦労を理解してもらえない。
 「マドレーヌの手」機能的には障害がないが、何週間・何ヶ月も手を使わないでいると自分の手なのに自分の手のように感じられないという状況が起きるが、彼女の場合それが生まれてから60年間一度も自分の手のように感じたことがないという。急激に自分の手を動かし、知覚することを覚えた彼女は、元々高い知性の持ち主と言うこともあり、芸術的な造形物を作ることを喜びとするようになる。
 「幻の足」幻影肢、今までてっきり、その存在は幻肢痛などデメリットばかりのものだと思っていたが、幻影肢による身体イメージがその義足にピタリと収まり一体化することで安心して歩くことができるようになるというように、その存在が有用に働くこともあるのか。
 「水準器」五感以外の6つ目の感覚「固有感覚」、関節や腱の受容体から伝えられる体幹と手足との相対的位置の認識のこと。それがあることで、身体をまっすぐに起こして、バランスを保つことができる。
 第六感とかは、超能力やホラーみたいな話で聞くことはあったけど、そうしたフィクションとかオカルト的な話で語られるものでない6番目の感覚が既にあったのね。
 「機知あふれるチック症のレイ」チック症からもたらされる感覚が音楽で役立つ、そのため、音楽を演奏する週末の時だけ薬をやめて二人の性格を行き来しながら生きるレイの話。
 「キューピッド病」70年前の梅毒によって、気分が浮き立つ症状があらわれた。その病気を忌々しく思っても、その病気がもたらす症状が惜しいという。結局ペニシリンで病気は治ったが、一旦生じた脳の変化を元に戻すことをしない治療をして、本人の希望をかなえた。
 「追想」鳴り止まぬ音楽に悩まされる女性。脳内で鳴らされる音によって、話している人の声がかき消される。脳に小さな血栓か梗塞が右側頭葉にできたことで、子供時代に聞いたアイルランドの歌が聞こえてくるようになり、そして子供時代の記憶が蘇ってきた。そしてその血栓の消失と共に歌も聞こえなくなった。子供の頃の記憶を重い出せないでいた90歳のC夫人にとって、その過去を思い出させてくれたその状態はある種の天恵だったようだ。
 ソ連の作曲家ショスタコーヴィッチは、頭を動かすと弾丸のかけらが側頭葉の音楽領域を圧迫し、それを作曲に利用していたという話は面白い。
 「おさえがたき郷愁」ずっと昔の、普段は思い出したりしないし、覚えていたことすら自分ですら意外であった記憶が治療でLドーパという薬を使ったとたん鮮明に思い出された。
 「犬になった男」薬物常用者だった男が、ある日犬になった夢を見て起きた朝からしばらくの間、嗅覚が鋭くなり、恐怖や満足の度合いや性的な状態まで嗅ぎわけることができた。鋭敏な嗅覚であれば、人間の鼻でもそんなことまでわかることができるというのは驚愕。
 「殺人の悪夢」かつて薬を使用しているときに殺人を犯したが、その記憶を持っていなかった男が、頭部に重症を負ったことで、催眠術や催眠注射によっても戻らなかったその記憶がはじめて完全な形で戻ってきた上に追想がおさえきれなくなった。
 「詩人レベッカ」運動能力が極めて低い知的障害、重度の前頭葉損傷、失行症などの状態にあって、簡単なひとつながりの行動ができなくても、音楽に合わせるとそうした欠陥は消え去ってしまう。だから、労働歌が生まれたのはそうした理由があったからかもしれないというのはちょっと興味深い。
 「生き字引」知的障害だが音楽、特にバッハについて広い知識と深い理解を持っているマーチンの話。単なる記憶でなく、バッハの複雑な技巧を理解できる音楽的知性を持つ。