塩の道

塩の道 (講談社学術文庫)

塩の道 (講談社学術文庫)

本書は、生活学の先駆者として生涯を貫いた著者最晩年の貴重な話――「塩の道」「日本人の食べもの」「暮らしの形と美」の3点を収録したもので、日本人の生きる姿を庶民の中に求めて村から村へと歩きつづけた著者の厖大なる見聞と体験が中心となっている。日本文化の基層にあるものは一色でなく、いくつかの系譜を異にするものの複合と重なりであるという独自の史観が随所に読みとれ、宮本民俗学の体系を知る格好の手引書といえよう。
(『塩の道』(宮本常一):講談社学術文庫講談社BOOK倶楽部 より)


 解説によると本書に収録されている三篇は講演が元となっているということなので、語り口調でわかりやすい。
 近江、良い鉄が取れたので鋳物師とその技術の根拠地となった。そして質の高いノミが作れたから、飛鳥時代とか鎌倉時代にはここから石工が出、その後、墓石の築造や木地屋などの技術者もそこから出て行った。木地屋は木をロクロでぐるぐると回しながらノミで削っていき、お椀などを作るのだが、その木を削るためのノミは精巧で歯が鋭くはこぼれしないものでなければならず、近江はそうしたノミを作るため鉄を産する場所だった。
 新潟のある山中の村では、冬に木を切り、雪解けで水量が多くなった時期に川に流して、河口には網を張って木をとめる。そうやって海岸まで行くと、そこでその木を使って塩を焼いて、潮ができるとそれを持って再び山に戻った。それが更に発展して、木を多く流す代わりに、海岸の人に塩を焼いてもらうことになる。そして江戸時代に交易が発展して瀬戸内海の安い塩が入ってくるようになると、同じく木を流して、それを新潟の町に薪として売って、その代金で塩を買うというように、自家生産→委託生産→交換に移り変わっていった。
 小規模に塩の生産をしていた多くの場所では、木を流して流した木で塩を焼いて奥に帰っていった。こうした時に使われた、川が最初の塩の道であっただろう。
 その後塩の生産量が多くなると、塩を売り歩くことが増える。しかし江戸時代に瀬戸内海の安い塩が手に入るようになると太刀打ちできなくなり、そうした生産は止まる。
 瀬戸内海では早い段階から塩が海岸で容易に手に入れられ、そこでは小さな雑木を生木のまま焼いて、麻をさらすために使われた灰汁の強い灰を作り、それを売って塩を得た。この時に売るものが灰だったのは、炭は金にするのに相当量を運ばなければならなかったため、軽い灰のほうが持ち運びが容易だったからである。
 しかし生木を燃やすというのは、いついかなるときでも非効率的なものだと思っていたが、そうやって燃やすことで灰汁が強く、麻を白くするのに必要な灰(雪のある地域では雪の上で太陽光線を当てると白くなるようだが)となったというように、どんなものでも利用法があるというか、どんなものにも様々な用途とそれに伴う様々な異なる作り方があるんだなと改めて実感。
 蹄鉄がなかったというのも大きいのだろうが、馬はもっぱら短距離移動専用で、長距離移動させる、多くのものを運ばせるには牛が用いられた。また、牛にはより悪路を歩く能力があり、牛は道草を食ってくれて食事の世話をしなくても良く、また牛は直ぐに横になって休んでくれるため、野宿するにも便利だった。
 そのため東北地方の三陸では海岸で生産された塩を牛に持たせて、奥に塩を持って行き、そこで稗など食料と交換した。こうした道もまた塩の道。三陸では多くのアワビがとれて、それを俵物となったから、多くの人が三陸に住んでいて食料が不足気味だったが、木は豊富にあったため、木でなく食料と交換していた。
 人でなくては通れない悪路を通って交易をする際に、単に塩を売るだけでは儲けがなかったので、塩魚を運ぶようになる。塩が貴重だったそうした地域のうち、たとえば大和の山中では、そうして買った塩イワシをまずなめて、その後、頭、胴体、しっぽと4日かけて食べた。
 塩が奥地の村々に入り、その塩を農家で買う場合、多くの家はあえてニガリのある悪い塩を買って、そこからニガリを取って豆腐を作るということが各地で行われていた。
 イザベラ・バードは、東北地方の山中の人たちが吹き出物が多かったり目の悪いことを観察しているが、それは実は塩が不足していたため、新陳代謝が悪くなって吹き出物が出たり、目が悪くなったりすることからきたもの。
 明治38年の塩の専売制が施行されたことで、日本の隅々まで塩が十分にいきわたるようになり、塩分不足からくるそうした吹き出物などが減ってくる。国による専売というのはマイナスなイメージが付与されることが多いけど、こうやって国が専売することによる好影響もあるのか。まあ、これは意識的に狙って出した効果ではないだろうが。
 日本は人口はここ2000年の間、徐々にずっと漸増してきた。こうして大きな変動なく徐々にずっと増えていった例は世界でもあまりない地域。戦争があっても内乱だったということと、戦争する者と食糧生産者が別で食糧生産者が戦争に巻き込まれる度合いが低かったために大きな人口の減少が起こらなかった。また、戦国時代の戦争、滅亡すると再起しようと立ち上がることも、残党を皆殺しということも少なく、ゲリラ戦のなかった国。
 トウモロコシが江戸時代にもそれなりに広まっていたようなのはちょっと意外かな。
 アワが作られるようになった時期はイネより古く、そのことは常陸・備後といった離れた場所で、それぞれの風土記でアワの新嘗祭の記述があることからも推測でき、おそらくイネの新嘗祭はそのアワの新嘗祭が応用されるようになったのだろう。
 本来稲のわらは丈夫でないため、南ではみな稲を穂首で刈る。しかし日本にコメが入ってきてから、わらがだんだんと強靭になってきたため、わらの利用が他の国に類を見ないほど発達する。農家で冬の手仕事として、そうしたわらを使った身の回りの品を多く作り、またわらでできているためわらじなどは消耗品で多く作らなければならなかったから、そのことが日本人を器用にさせたという話はなるほど。
 労働着は柿渋で染めたが、そうすると水をはじいた。中世の非人とかそういう人は、そういう衣類を着たという話は知っていたけど、そうやって染めることでそうした効用があるとは知らなかった。
 また、昔は魚を取る網を丈夫にするため柿渋で染めたり、木材に柿渋を塗って腐らないようにしたようだ。