地雷を踏んだらサヨウナラ


地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

アンコールワットを撮りたい、できればクメール・ルージュと一緒に。地雷の位置もわからず、行き当たりドッカンで、最短距離を狙っています……」フリーの報道写真家として2年間、バングラデシュベトナムカンボジアの激動地帯を駆け抜け、26歳で倒れた青年の鮮やかな人生の軌跡と熱い魂の記録。

砲火に身を曝(さら)してシャッターを切るとき、無論、明日の未来はありませんが、こうして今、一分一秒を生きている実感は重く、充実しています。
(『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造, 馬淵直城):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部 より)

 1973年戦地カンボジアでの取材中に亡くなった若き戦場カメラマンの写真と書簡(親や友人、恩師との)が収録された本。以前から気になっていたが、ようやく読めた。
 写真の章と書簡の章が概ね交互に配置されていて、写真だけでも90ページくらいあるので文量自体は少なめで、あまり読了までに時間がかからなかった。
 他人の手紙を見る機会はそうそうないが、こういう手紙とかを見るのは面白いから、書簡集ってなんか好きだな。まあ、好きといっても、入手容易で手ごろな値段の書簡集があまり見当たらないから、中々読む機会はないけど。
 主に著者が送った手紙だけど、たまにそれに対する返信(主に両親が著者に当てて出した手紙)も掲載されている。
 友人に対して送った手紙では、性的な事情(売春宿に行ったこと)なんかも明け透けに書いているので、そうしたところまで含めた、戦場カメラマンである著者の普段の生活が色々と垣間見れて面白い。また、両親に送った手紙やそれに対する親の返信は、遠く離れていても繋がるものを感じられるからいいね。
 著者は現地の人に溶け込んで交流していて、戦地の人たちとのそうした交流、戦場と薄紙一枚しか隔てられていない日常の光景が書かれているのがいいね。そうした描写を見ると、戦場が近くてもそれが続いているから、市民は常に緊張しているとかではなくて、もちろん変化したところもあるだろうが、そうした場所にも変わらない人々の生活、人々の交流があることを改めて実感する。
 例えば著者は共産軍に占領されたアンコールワット近くの町に滞在しているが、そこから戦場に出て、その日に戦場から帰ってきて、町のレストランで一杯やっていると学校から帰ってきたロック・ルーが話しかけているという描写を見るといかに戦場が近いか、人々の日常から近いかということがよく伝わってくる。
 他にも政府軍の要塞となっている見晴らしの良い丘近くに近所の人たちとピクニックに行き、ロケット弾が飛んでくる。そうしたことからも戦争・戦地・戦場というものがいかに身近なのかがわかる。
 両親に棺桶になきすがる遺族の写真が絵になると思っても近くで取れず、それで写真家失格かもしれないと考えたなんてことも軽い調子でだが、書き送っている。
 しかし戦場カメラマンというのは、かなり危険な地に身を置いているのに、著者がフリーで、あまり名がないということもあると思うが、結構生活がかつかつでちょっと驚いた。写真を一枚単位でそうした写真のネガをはさみでチョキンと切り取って売るが、だいたい一枚何十ドル程度で、月に数百ドルにしかならないというのは、そんな微々たる収入しか得られないとは割りに合わない商売だなあ。
 著者が一時帰国した際のことは、母親の日記が挿入され、そこで日本に帰ってきたときの彼の姿が書かれている。
 後半には「カンボジア報告」と題して、未発表原稿が3篇収録されている。その中では戦地での詳細なレポだったり、書簡で読んだときから気になっていた、ロックルーの結婚についての詳細な話が書かれている話もある。
 戦場となった町の取材中、干し米を何食分も携帯食料として持っていて、実際に干し米をぼりぼりと食べたり、水で戻して食べているようだが、当時まだカンボジア軍では干し米が携帯食料として用いられていたのかとちょっと驚く。「風雲児たち」では、幕末の人である江川太郎左衛門が門弟たちと、糒(干し米)を食べてたら、下痢になったりして、それは江戸人には携帯食料として不向きであると描かれていたが、こうやって現代日本人である著者もカンボジアの人たちも普通に食べていて、隊長を悪くしたなんて描写もない以上、江川太郎左衛門は干し米の作り方間違えたのではないかと言う疑惑がわいてくる(笑)。
 解説、フォトジャーナリストの人が、その人が新人だったときに見たカンボジアでの著者の良い写真を撮るためだったら戦闘中に立ち上がることもいとわない大胆不敵さだったり、激戦地でかつて自分を追い出そうとした将軍を見て、窮地に合ったのでその人が歓迎して倉田のを見て、その人との仲直りで握手している写真を撮って、その将軍に許されて取材しているという証拠写真として用いたというような抜け目ない行動を敬意を払いながら書いている。そこらへんは他者視点でないと中々見えてこないところなので、こうした解説を読めてよかった。