臨死体験 上

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

まばゆい光、暗いトンネル、亡き人々との再会―死の床から奇跡的に蘇った人々が、異口同音に語る不思議なイメージ体験。その光景は、本当に「死後の世界」の一端なのだろうか。人に超能力さえもたらすという臨死体験の真実を追い、著者は、科学、宗教、オカルトの垣根を超えた、圧倒的な思考のドラマを展開する。


 結構積んでいたけど、ようやく上巻を読了。まあ、積んでいたとはいってもたぶん1年は積んでいないと思うが、他に同著者の「天皇と東大」も積んでいるので余計にさっさと読み終えなければという思いが強くあったから、「ようやく」と感じた。
 テレビ番組の取材であちこち取材したけど、実際の番組では時間の都合上皮相的な部分しか放送できず、その取材の深い部分がまったく使われなかったということもあって出したという本みたい。しかし長時間番組のためにそうした研究の著名人に対してインタビューをしても全く使われなかったというケースが結構あるそうで、そうしてその道の人にインタビューしたのに全く使われないということがままあるんだということははじめて知ったので、ちょっと驚いた。
 臨死体験、ある程度共通するいくつかのパターンはあるにはあるが、そうしたパターンのうちこれは必ず体験するというものはないし、パターンの組み合わせもまちまちで、典型的な臨死体験と言うものはない。
 さまざまな体験者の体験例をあげられているが、そのどれもが具体的で幻想的な体験なので、読んでいて興味深く面白い。また上記にあるような使われなかった研究者や、研究者であり体験者などへのインタビューの内容が書かれている。
 通常の臨死体験は体験者の心理的には幸福に感じるもの。内容的に、デスパレードな内容の体験と見える体験をした人でも「死への恐怖はありません。あんな風に死ねるのなら、死は怖くありません」(P88)といいきっている人も何人もいるなど、臨死体験はネガティブな体験であっても体験者にポジティブなインパクトを与えることができる。ただ、それも全員が全員ではなく、少数ではあるが臨死体験時に、ネガティブな思いを抱いたという体験者もいる。
 低酸素状態に陥った脳で起きる幻覚症状という解釈、臨死体験時は脳は低酸素に陥っているのだからそれで説明できる要因もある。他にもエンドルフィン仮説では幸福感の説明はつくかもしれない、しかし臨死体験は複合的要因で起きるものなので一つの説では部分的説明にしかならない。ただ、エンドルフィン説は、臨死体験時の明晰な意識だったり、持続時間についてはその説をとるのではおかしい部分があるようだ。また低酸素説でも明晰な意識と言うのはおかしいということになるようだ。
 『心臓が止まっても生きているなどということは、あり得べからざることと聴こえるかもしれないが、これも、あり得ないことではない。正確にいえば、心臓が完全に停止して、血流が完全に停止してしまえば、人は死なざるを得ないが、動脈を触診してすぐわかるような拍動が停止しても、心臓細動による一定の微小血流が確保されていれば、人間は一定期間生きていることが出来るのである。実際、ヨガの行者の中には、心臓(の拍動)を止めて見せる男がいる。どの程度の微小血流で生きていられるかは、代謝水準によってちがうが、代謝水準がギリギリまで下がっていれば、三十分くらい血流が事実上停止した状態でも生きていられる。』(P119)というのは面白い。
 臨死体験、日常的な意識と超常的な意識の境目で異音が聞こえることもあるが、超常的な意識(臨死体験の中核部)においてはなんともいえない静けさ、あるいは美しい音楽が聞こえる世界を体験する。
 出生時の記憶、催眠で暗示・誘導行われて作られたのではないかと疑わしいものもあるが、吟味して本当の可能性が高いと著者が思えるものもかなりある。と書かれているのを見て、よく考えたら、覚えていなくても記憶は残っているという話も聞いたことあるし、それに生まれてきたときと連続しているんだから出生時だったり、胎児の記憶があるというのもあながち嘘でないということもありえなくもないなとちょっと思えるように。
 臨死体験をすると超能力が身につく?少なくとも、その能力が事実化はともかくそういう感覚を得た人は多いようだ。
 単純に人生観、世界観を変えただけでなく、いままで全くの門外漢で数学や物理学の知識なかったのに、量子論についてその内容が読むと分かるようになったし、そうした方面に関心が行くようになったなどと言う知的能力・知的方向付けの変化があった例などもある。
 『臨死体験で、大概離脱する場合、ほとんどのケースで、ベッドの上に残された体は、まるで死んだように横たわっているだけなのだが、かの緒所の場合は、苦しみのたうち、さけびごえさえあげていたという。』(P438)本人は臨死体験中、そうした苦しみを感じていなかったようだが、体はそうした反応を継続していた。