臨死体験 下

臨死体験〈下〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

科学はどこまで臨死体験の核心に迫りうるのか。生物学者や神経学者は、様々な実験や仮説によってそのメカニズムの解明に挑み、成果をあげてきた。しかし、なお謎は残る。蘇生した人々はなぜ、本来、知るはずのない事実を知ってしまうのだろうか…。構想、取材、執筆に五年。発表と同時に大反響を呼んだ著者渾身の大著。

 1975年に発売されたムーディの臨死体験について書いた本が米国内で400万、世界全体では1200万部売れ、そこから臨死体験の本格的な研究が世界で始まる。
 臨死体験の対外離脱、大きく分けて脳内現象説と体外離脱現実説の二つにわかれている。ほとんどの臨死体験は、科学的にありうる解釈もつけられなくもない。例えば、意識不明だった中でその周囲がどうだったのかをわかっていたというのは、意識不明でも周囲の言葉を実は記憶していて、耳で聞いた情報を脳内で再構成したなど。ただ、ある体外離脱である5桁の数字を当てるというテストであてた人がいて、その条件を再度確認すると、他の光を全部弱くして数字を記した紙のところだけ数百倍の光量の光を当てると盤面に反射して読めることは読める。そうした特殊条件下では読めるのだから、その情報が潜在意識に届いていたかもしれず、だから潜在意識から読み取ったと解釈できなくもないから体外離脱現実にあるとする絶対確実な証拠とはいえないというのは、そこまで来るとこじ付けでたまたま数字が当たったというほうがまだ可能性高いのではと思える解釈。一体どんだけ人間の潜在能力高く見積もっているのかと(笑)。
 しかし臨死体験者が、外からは見れない、変な場所(外からは見れない場所)においてあったある靴を臨死体験中に見たといい、それが実際にあったという例や手術中の体外離脱、目にマスクのようなものをされていたのに手術機器だったり、手術で使う特殊なものを名前は分からないがその見た目をズバリ当てていた例などは脳内現象説、耳で聞いた情報の再構成と言うのでは説明できない。そのような種類の証言もある。
 水晶玉占い、透明なものをジーッと注視して、そのうち意識がぼけて焦点があわない感じになると、実際に何らかの幻想的イメージ(夢と同じように潜在意識化に隠れていたイメージ)が見えてくる。『つまり、人間の視覚系というのは、一定の条件化では、必ず幻覚が見えてくるような生理的メカニズムがそなわっている。』(P69)
 水晶玉、眠る前の入眠状態がアイデア出やすいというのと同じく、無意識下からイメージをひきつける。
 臨死体験は地域ごと時代ごとで臨死体験でよく登場するイメージも違う。そのようにある時代の社会が共有しているイメージということである程度は説明がつく。欧米、日本だけでなく、インドやパプアニューギニアでの臨死体験のエピソードが書かれていて、特にパプアニューギニアの経験者が語った臨死体験のエピソードはまるで幻想小説のエピソードみたいで、他とかなり色合いが異なっていて面白い。
 インド、地獄か天国かを振り分ける神ヤマ(ヤムラージ)が中国に入り土着信仰の冥府の王のイメージがくっつき閻魔に。インドではそのヤマの使いが出てきて、ヤマの前に連れ出されるが、同名・同姓の別人と取り違えられて、帰らされるというのが臨死体験のパターンで多い。
 体外離脱について検査するにしても、たいてい体外離脱したのは劇的な一、二度というケースがほとんどで、繰り返し経験は稀で、自分の意志でできるという人は更に稀。そのため、その自分の意志で出来るとする人を調査するのが、本当に体外離脱の研究になるのかと言う疑問もあるそうだ。
 感覚遮断すると、夢・幻覚をあたかも現実の記憶と同じ鮮明さで記憶してしまう(「実感として明らかな」幻覚を見る)ことが起きる。人間は必要な感覚刺激がないと現実と非現実の識別能力を失う。
 身体が浮かぶ液の入ったタンクの中に身体を入れて、そのタンクを閉じて、暗闇の中で刺激がない状態にする「ソマディ(悟り)・タンク」というものがあり、そこに入ると身体を動かしたり触れたりしないと身体がどこにあるかという感覚を失ったり、狭いはずのタンクの中なのにタンクの内側に触れないと広大な広さがあるように思ってしまう。それが日本でも一時期はやっていたようだ。有栖川有栖「ダリの繭」でもそんなのが出てきていて、それを見てちょっと気になっていたが、もうとっくに廃れているものなのね。
 側葉性てんかん臨死体験には、「宗教的になる」「哲学的になる」「愛情深くなる」という人格変化の事後効果が見られるということや、臨死体験者には超常現象体験が増える傾向というのも、それは側葉性てんかん体験者にもあてはまるなどの共通点がある。両者を結びつけたモデル、細かい違いはあるものの大筋ではいい線いっている。
 臨死体験、大半は脳内現象で説明可能だが、脳内現象説で説明するのが難しい、かなり強引な解釈しなければならない事例もそれなりの分量ある。