八月の蜂起 小説フランス革命11

内容(「BOOK」データベースより)

革命に圧力を加えようとする諸外国に宣戦布告したフランス。しかし戦場の兵士たちの士気は低く、緒戦に敗退。開戦を主張したジロンド派は窮地におちいる。敗戦の責任を王家に転嫁しようと民衆の蜂起を促すも、あえなく失敗。政局が混乱し革命が行き詰まりかけた時、フランスの未来を拓くために、ダントンが、デムーランが、再びパリを起ち上がらせる!革命が大きく舵を切る、運命の第11巻。

 第二部2冊目。前巻から間を置かずに読む。この巻で蜂起がなり、王権は停止され、いよいよ王の処刑というフランス革命における非常に大きな山場が近づいてきた。
 前回ジロンド派が試みた民衆を使って王に圧力をかけて要求を呑ませようとしたが、結果として群衆の突入に逃げず、また要求に応じず最後まで粘り切った王の人気が高まり、一方でその騒擾での不手際を批判され、ジロンド派は窮地に追い込まれた。だが、ラ・ファイエットフイヤン派)の軽率な行動で、逆に王の人気が低下し、ジロンド派の窮地が救われた。更にジロンド派は一転攻勢をかけて世情の雰囲気を劣勢から、五分あるいは優勢へと押し返した。
 一貫した態度をとっていたロベスピエールに民衆の人気集まっていて、ジロンド派が窮地から免れられたということには、ロベスピエールによるラ・ファイエットへの痛烈な批判という援護射撃があったのもまた大きかった。
 ダントン、前回の民衆を使った運動の失敗で一旦パリから逃れていたが、再びパリへと舞い戻る。今度彼はジロンド派抜きでの蜂起を企てる。その蜂起にデムーランは参戦し、ロベスピエールも蜂起に協賛した。
 ブラウンシュヴァイク公の宣言で、目的は内政干渉でなく王とその家族の解放と宣言したことで、フランス王の人気は一気に落ち込み、その文言を見て「オーストリア委員会」の存在があると思われて、「オーストリア委員会」への攻撃が激しくなり、廃位や共和制樹立を求める声をあげるのにはばからなくなった。
 ロベスピエール、ペティオン(ジロンド派)と蜂起しないと約束してしまったため身動き取れず。しかしダントンとデムーランは、ロベスピエール不在は誤算だったが、むしろその油断を突いて今こそ蜂起することを決意。
 そして八月の蜂起(1792年8月10日)が始まる。
 王はテュイルリ宮から議会へと避難する。
 宮殿を守るスイス傭兵と蜂起した市民(パリにいったん集まっていた地方の軍隊も含まれる)との間で戦闘が起こり、市民側は大きな被害を受けるも最終的には勝利して、テュルイリ宮を占拠する。デムーランはこの戦いにおいて再び戦火の下に、硝煙の煙の中に身を置くこととなった。
 そして蜂起が成ったあと、議会の解散が決まり、王権は停止された。そして、新内閣(王権が停止されたため、内閣から名称を臨時執行評議会へと変えたが)を組閣されダントンは法務大臣になる。また、ダントンたちとジロンド派は蜂起後に手打ちをして、新内閣にはジロンド派のメンバーが多数(6大臣中5人がジロンド派)を締めることになった。
 しかしダントンには蜂起の自治委員会が付いている。その正式なメンバーの中に高い人気があるロベスピエールがいて、蜂起の自治委員会はダントンよりもロベスピエールの奉戴を好む。蜂起の自治委員会がダントンの思うままにならないからこそ、ブリソ(ジロンド派)にもロベスピエール(蜂起の自治委員会)にも話せる、こじれたとき・意見が合わなかったときのの仲介・すり合わせが出来る、ダントンの重要性が増していた。ロベスピエールにトップを譲ることで政局の要となるとは、ダントンやるぅ!
 蜂起で1000人の犠牲者が出たことへの怒りが、彼らへの裁きを求める声となって噴出。
 パリ市民で構成された蜂起の自治委員会が、フランス各地から選出された銀たちによる立法府に圧力をかけている状況から、パリと地方の闘争にも転化しつつあった。
 パリに戦争の脅威が迫る中で、都市全部を家宅捜索して、武器徴収し反革命の容疑者3000人の逮捕に成功する。危機の中で後のロベスピエールの恐怖政治に繋がる政策がなされる。
 内政で軋みがあったが、ヴェルダンが陥落し、早ければ一週間でパリに軍が来る状況になって、その危機によって一致団結がなされ、数日来の内政での抗争が終結する。
 最後のダントンの「もっと大胆に、常に大胆に」という言葉、後のことを思えば不穏なものとなって響く。