イギリス史10講

イギリス史10講 (岩波新書)

イギリス史10講 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)

グローバル化は今に始まったのではない。ストーンヘンジの時代から、サッチャー後の今日まで、複合社会イギリスをダイナミックに描く。さまざまな文化の衝突と融合、歴史をいろどる男と女、王位問題と教会・議会、日本史との交錯など、最新の研究成果を反映した、タネもシカケもある全10講。


 ドイツ・フランスに続いて、これを読んだので「10講」シリーズも現在刊行されているものは読み終えた。近世以後に重点を置くということがこのシリーズの共通の約束のようだ。
 現在だけでなく有史以来、多民族からなってきたブリテン諸島の歴史。イングランドウェールズスコットランドアイルランドといった国・地域・民族の多様性に着目して書かれているイギリス史。
 ラテン語、読み書き能力は中世よりも古代のほうが高かったというのは、ローマ帝国が健在の時と、教会で使われているとはいえローマ滅亡後では当然のことかもしれないけどそうなるよなあ。でも、そうした学術的な技術が低下するというのは改めて聞くと、どんなことを何度聞いてもそうだけど、ちょっと意外さを覚える。というか、よく考えたらラテン語のそうした話って他の10講シリーズだか、他の本で読んだ記憶があるのにまた意外に感じるって我ながらなんなんだ。あらゆる事が全て進歩してきたし、していくなんて価値観を信奉しているわけではないが、なんだかんだいうても基本的にはそういう感覚が染み付いているのかねえ。中世が停滞・暗黒の時代でなかったということを知って、基本的には多くが進歩していったと思っているからこそ意外感を覚えるということかな。
 グレートブリテン北部のスコットランドアイルランド出身のスコット部族の地という意味。彼らが来る以前は無文字で独特な文化を持ったピクト族の地だった。
 アルフレッド王、先行の年代記を吸収して、新たな年代記などを編纂させて、自分の治世を顕彰させた。
 10世紀後半、ヴァイキング襲撃を触媒にして、他の地域が部族で相争っている中、イングランドがいち早く王国を形成。同時期ドイツ・フランスでも、カロリング朝の消滅後、他の貴族より卓越したものが教会から塗油を受けて戴冠し、皇帝・王としての正当性を示し、継続的な王朝が開始される。
 12世紀後半、アイルランドイングランド貴族の殖民が始まり、ローマにも征服されなかった自由の島アイルランド、『太古の昔から自由を享受した人民』(P58)がこのとき初めてイングランド王権に屈服。
 13世紀後半、イングランド王に臣従する形でウェールズ唯一の君主が誕生。しかしその後ウェールズ侵攻でウェールズ公領没収し、1301年王の長子をウェールズ公として立太子。その後は「ウェールズ公」はイングランド王の長子、王位継承順位第一位に与えられる称号となる。
 ヘンリ8世、カトリックから抜けて国教会を作り、結婚を繰り返した王。その当時、当事者二人が障害変わらぬ愛を誓えばそれで成立し、司祭の立会いが必要とされるのは英国では1753年からのこと。
 ブラッディ・メアリの治世でカトリックへの復帰がなされるが、それは民衆にとっては美しい英語による祈祷の廃止を意味し、また聖職者はプロテスタント(国教会)となることで正式に結婚が許されたのに妻子と別れなくてはならなくなり、修道飲料を購入した新地主にとっては財産の返還しなければならなくなるなど、カトリックの復帰を歓迎したもの少なかった。そのため、むしろそのメアリによる弾圧・虐殺によって、広く深くプロテスタンティズムが根付いた。
 ジェイムズ1世、母の処刑を決したエリザベス女王を尊敬。母の愛が薄く、母は父殺しに関与したということもあって心に葛藤があった。こうしたことを読むと、複雑な内心を抱えているであろう彼についての話を読んでみたくなった。
 『一六五三年一二月に成文憲法「統治章典」が制定され、クロムウェルが護国卿に就任し、三つの家産国家は消滅して単一の「イングランドスコットランドアイルランド共和国」となった。』(P132)ここでようやく現在わたしたちがイメージするようなイギリスに。
 このイギリスの革命が起こった当時は30年戦争直後と言うこともあり、他列強が干渉戦争してくることもなかった。
 カトリックの王が誕生して、ブラッディ・メアリの時代の再来を防ぐため、国境と目あり王女と結婚したオランダ総督オラニエ公ウィレムを招聘。イングランドにとっては国政の回復、ウィレムにとっては対仏プロテスタント枢軸の構築が目的。
 その名誉革命で、非国境とプロテスタントの各宗派は礼拝と教育の自由を享受。ユグノ・オランダ人などの人材が積極的に登用される。
 結果的に『名誉革命によって、商業覇権も人材もノウハウも、覇者オランダ(およびユグノ・フランス)からプロテスタント・イギリスに軟着陸した。』(P154)
 アメリカ殖民、王やロンドン市が支援した。そのため『後年には、あたかも絶対王権に追放されたピューリタンが正しい侵攻を守るため生命をとして海洋をわたったかのような「巡礼の父祖」の語りが登場するが、それは近代の作られた伝説である』(P178)
 産業革命貿易赤字の解消と、その原因となった舶来品の模倣品の作成できないかという試行錯誤によって促進された。そして舶来品として珍重されていたインドの手織り綿の産業を侵食し、破壊するという結果に至る。
 産業革命、既知の技術とノウハウを結合し最大化することで始まる。蒸気機関が誕生した当初は、蒸気機関の効率が悪く、水車のほうが効率的だった。『蒸気力と鉄道は産業革命の動因ではなく、その完成の象徴である。』(P191)
 産業革命、その始期が1780年ごろとして、その前後の国内生産の年成長率は1700-80年の間は0.7%前後、80年代から1.3%、1801年以後は1.97%になった。一人当たりの年成長率は1760-80は0成長、80年以後も0.35%、19世紀の最初の30年でも0.52%程度。20世紀の高度経済成長を思えば控えめな数字だが、そうした成長が『何十年と続いたのだから「革命」という名がふさわしい』(P192)。
 19世紀のイギリスの貿易収支はドイツ・アメリカとの競争で製造業が苦戦を強いられるずっと前から貿易赤字。しかし海運、保険、海外投資などの貿易外収支があったため19世紀を通じて経常収支は常に黒字だった。
 1930-40年代に英米が獲得した旧オーストリア・ドイツの人材。名誉革命後にフランスのユグノ・オランダの人材を獲得したときの数倍の規模であった。第二次大戦の時とユグノとかの人材の獲得を一緒に考えたことなかったからちょっと新鮮。これによって英語が真に知的なグローバル言語となる。