武士の絵日記

内容(「BOOK」データベースより)

幕末の暮らしを忍藩の下級武士が描いた『石城日記』。家族や友人、寺の和尚や料亭の女将たちと仲睦まじく交わり、書を読んで歌を唄い、食や酒を大いに楽しむ。家族団樂、褌一丁での読書、素人歌舞伎などの描写は、飄々とした作者の人柄がにじみ出ており、思わず吹き出すような滑稽味にも溢れている。封建的で厳格な武士社会のイメージを覆し、貧しくも心豊かな人生を謳歌した下級武士たちの、真の日常生活がわかる貴重な記録。


 10万石の親藩である忍藩(現埼玉県行田市)の下級武士で、絵が達者だった尾崎石城が描いた絵日記に書かれている作者の生活を通して、江戸住みではなく国元の城下町(地方都市)に暮らす当時の下級武士の日常がどんなものだったのかを見ていく。この絵日記は文久元年から二年(1861年1862年)にかけた半年のことを書いたもの。
 絵日記を時系列で順々に見ていくという形ではなくて、テーマ別にそれぞれに関連した日記の記述や絵を見ていくという形。
 石城は元は中級身分だったが、藩政を論じた上書を提出して下級武士の身分に下げられた。その上書の内容はわからないが、『絵日記の中に水戸浪士に共鳴する一文があることから、尊皇攘夷的なものであったかもしれない』(P7)。
 上級武士や町人との交流、親しく付き合うことがかなりあった。そして寺は、武士・町人のすべてが寺檀関係を結んでいたこともあって、武士・町人とわず気軽に行ける場所であり、普段から彼らはよく寺に集まって身分の書き寝なく酒宴を催していたり、しばしば催しごとをしていた。なので寺がそうした身分間の交流が行われる、一つの大きな要因となっていたのではないかとちょっと感じた。
 武士仲間だけでなく寺の人や町人とも普通にともに酒を飲みながら身分の違いにこだわらずくったくなく話したり、仲の良い町人が女性(色っぽい関係でなくてね)でも家を訪ねてきたり、さらに『武士の家の茶の間に上がってこたつで団らんをしたり、座敷での酒宴に参加することも多い』(P311)、また引越しの祝いに来て台所仕事まで手伝ったりと、そうした親密な交流が普通に行われていたというのはちょっとイメージと違って驚いた。そして酒を出す店で、『町人が武士に楯突くこのような風景は決して珍しいことではなかったようだ。』(P246)
案外そこらへんはゆるかったんだな。
 江戸時代には食事は一人一つの膳に料理の皿が載せられて食べていたという印象だったけど、少なくとも身内・仲間内の場では、大皿に料理をいれてそこから各自の取り皿にとって食べるという食事風景もあったのか。それがどれほど一般的なものかは知らないけど。
 週1、2回しかお勤めがないということもあってか、毎日のように多くの友人と会っている(平均5、6人、多いと8、9人)。
 しかしこの絵日記を見ているけど幕末ではあるけど、友人たちと親密にふれあい、時間的にゆっくりで悠然たる暮らしぶりをしていたことがわかる。いいなあ、こういう生活、うらやましい。
 蕎麦、酒宴時などに馳走として年中食べられた。そして内陸部だが、さしみも宴の時などにはよく食べられた。普段の食生活は質素だけど、わりと宴の時は結構豪華に。それにそうした酒宴の席も結構あったみたいだから、そんなに常に貧しい食事って感じもしない。
 中下級の武士が自ら台所に入って料理を作ることが普通にあることだった。
 「六 中下級武士の住まい」、副題の『武士の暮らしと住まいの風景』の「住まい」に焦点をあてた石城の絵日記とはあまり関係のない、江戸時代の武士の家についての話(特徴など)や日本の家の歴史的な話、そして当時と現在の家の違いと現在の家についての批判なんかが書かれた内容。ただ、他と毛色の違うその住まいについての論考がが各章のなかで一番ボリュームあるので、正直そこでちょっと読むペースが大分落ちた。
 江戸時代の表・裏の概念は南北、日当たりのこととみなされることもあるけど、実際はそうしたことは関係なく道側かどうかということという話だったり、江戸時代の家は道側に庭を作っているので開放感があったが、現在は日当たり重視で、南側の宅地は北側に詰めていて圧迫感のある建築になっているという話など、面白くないわけではないけど。
 素人歌舞伎、城下町の中の各町をめぐる米一升が観劇料。
 自身が金がなくても母に金を送ったり、貧窮する友人に迷わずお金を援助したりと得日記の作者である尾崎石城の情の厚さを感じる。