ドナルド・キーン自伝

ドナルド・キーン自伝 (中公文庫)

ドナルド・キーン自伝 (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

日本文化を世界に紹介して半世紀。ブルックリンの少年時代、一人の日本兵もいなかったキスカ島、配給制下のケンブリッジ、終生の友・三島由紀夫の自殺…。齢八十五に至るまでの思い出すことのすべて。

 子供時代はともかく、あとは日本学者として、日本への関わりという縦糸で語られた自伝。この人の著作はすごく読みやすくて面白いから、少し読もうとしてついつい寝るのが遅くなってしまう。
 1章では少年時代から戦争中・海軍の通訳(語学将校)として働いていたときまでこと、2章は除隊してからのケンブリッジ留学や日本留学時代(~55)が主に描かれ、3章では三島・川端の死までのさまざまな小説家との交流や著者の日本学者としての本格的な活動の模様が描かれる。そして最後の4章はエピローグ的な章で、それ以後の著者の活動(研究内容)、どういった関心を持ち著作を書いたかなどが書かれて、三島・川端の死以後の新たな出会いや交流についてはほとんど書かれていない。
 しかし日本文学史上の有名人(吉田健一安部公房三島由紀夫など)がぽんぽん出てきて、すごいな。昔の文壇の話とか読まないから、こうやって有名な小説家がどんどん登場するのはなんだか新鮮。そしてその付き合いを見るに、有名な小説家の人たちは結構近い距離にいたのだなと感じる。今はもっと互いの交流が薄そうなイメージだからね。
 少年時代に父に連れていってもらった欧州旅行で、外国語を学ぶ理由に気づき、帰国後フランス語の勉強をしたくなる(結局家庭教師を雇えず、中学の授業を待たなければならなかったようだが)。それが著者の外国語への強い関心の始まりだった。
 欧州では第二次世界大戦がはじまった、そんなきなくさい時代・状況下で、アーサー・ウェイリー源氏物語』をはじめて手に取り、逃避的に源氏の世界に没頭。
 それからひょんなことから日本語を学ぶ機会がやってくる。そこで日本の文字が(ローマ字でないという意味で)難しいため、克服しようと言う意欲がわく。
 その後、大学4年で角田柳作の「日本思想史」をとる。その後直ぐ、その年に日米開戦。海軍語学校で、日本語を勉強。海軍、日系人信用していなかったため、日本語学校を創設し通訳を促成教育。
 この第二次大戦中に触れた、日本人兵士の日記についての話。それは別所でも何回か読んだ覚えがあるのでよほど印象的な出会いだったのだな。
 アッツ、キスカ上陸戦に従事。キスカの完璧な撤退の際に、日本軍は最後のいたずら・嫌がらせに「ペスト患者収容所」と書いた看板を設置していた。それに驚き、血清がくるまで戦々恐々として過ごしたアメリカ軍の中に著者もいたのか。思わぬつながりだねえ。
 戦争終結直後、占領軍の一員としてわずかな期間日本に滞在。といっても本来は上海からハワイにすぐ変える予定だったが、途中に厚木に到着した折に、原隊復帰の命令出されているが、自分の原隊を間違った(ハワイだけど横須賀と言った)風を装って、しばらく日本に滞在していたというだけだが。
 除隊後、再び大学で角田先生の下で勉強を再開。その後、ハーヴァード→ケンブリッジ→日本と遍参。
 ケンブリッジでは他大学の学位を認めていないから、大学1年のクラスに入れられたというのはへえ。今では流石に違うと思うけど、少なくともその頃までそんな変わった慣例があったのか。
 ウェイリー、60過ぎて、アイヌ語を覚えて「ユーカラ」を翻訳するって凄すぎる。
 日本(京都)留学中に、かつてアメリカで発表した書評が翻訳され無断掲載。その事件をきっかけに雑誌「文学」の編集長と親しくなり、彼から言行を依頼されることになり、そこからさまざまな雑誌に文章を発表することとなる。
 三島がニューヨークに滞在したとき、日本では有名人でスターだったから、自分があまりにも知られていないことに愕然として、著者にニューヨークで有名になるにはどうしたらよいかと尋ねた。それに対して著者はもしヘミング・ウェイとフォークナーが腕を組んでタイムズ・スクエアを歩いても誰も気づかないと答える。このエピソードで、当時の日本の文学者の地位の高さ、知名度の高さが今と段違いだったことが良く分かるわ。