オアシス国家とキャラヴァン交易

オアシス国家とキャラヴァン交易 (世界史リブレット (62))

オアシス国家とキャラヴァン交易 (世界史リブレット (62))

解説:
シルクロードのオアシス国家はキャラヴァン交易なしには成り立たなかった。そうした交易商人の実像を,ソグド商人の活動を中心にさぐる。
(オアシス国家とキャラヴァン交易 歴史と教科書の山川出版社 より)

 シルクロードは名前は有名だから当然知っているが、ロマンがあるという非常にぼんやりとしたイメージしか持っていなかったので、ちゃんとシルクロードについて書いた本を読みたいと思って読む。しかし私の探しかたが悪いとか、基本文庫とか新書でしか探していないというせいもあるかもしれないが、有名な割には意外とシルクロードについての本で手軽に入手できるものって少ないのね。
 しかしこの本は思ったよりもだいぶ地域に限定されているし(もっと交易商人に限定して、中国と地中海世界の間の全ての地域を扱うものと勘違いしていたので)、中国の政策・制度とか、大きな社会的にどういう規模で誰が担い手だったか、交易商人であるソグド人間の広い地域での連携などが書かれているけど、大局的なもので、個人的に求めていた交易のエピソード細かな挿話みたいなものがほとんどなかった。年代的にそういう資料がないか少なかったと思うので仕方ないかもしれないけど、そういうのをちょっと期待していたので、そうした交易の詳しい様子を活き活きと描いた描写なんかはなくてちょっと残念。
 中央アジアは、現在のトルキスタン(現在・東トルキスタンは中国ウイグル自治区西トルキスタンウズベキスタン)にあったオアシス国家に焦点を当てている。その地方を中心にして、シルクロード交易(東方交易)を見る。
 現在の西トルキスタン、ソグディアナがイスラームに支配される8世紀前半まで、ソグディアナから中国内地までを覆う交易ネットワークを築いたソグド人商人を主役に据えている。
 この地の(他もそうかもしれないが)オアシス、高山からの雪解け水によってできた緑の帯のことで、そこに村や町、あるいは都市が作られる。
 東トルキスタン南部タリム盆地周辺では、そうした諸都市・村・町が束ねられていくつものオアシス国家ができていた。そしてそのオアシス国家の人口は数万が標準。
 ソグディアナ(西トルキスタン)のオアシス諸国は都市国家的で、広域にわたりキャラヴァン交易をした国際商人を輩出。タリム盆地の方で、国際商人と呼べる存在は認められなかった。
 このソグディアナのオアシス諸国から排出された集団(ソグド人)が、唐代までのシルクロード貿易を、(唐時代の一時期を除き)ほぼ独占。
 ソグド人商人の中には中国内地などに人を半ば現地に常駐して、東方交易活動を展開する者もいた。そうして本国の雇用主やパートナーとの交易事業を推進した。 『とくに富裕なソグド人商人ともなれば、代理店・代理人をおき、支店網を構築することが多かったようだ。』(P18)。
 遠距離交易のキャラヴァン、一種の投資事業であったため、さまざまな人から資本を集め商品を購入し、貿易して帰還した後にもと金と利益を配分することが一般的であった。
 東方への遠隔地交易、一つの商品を遠隔地に直接輸送することはめったになく、こまめに商品の取引を積み重ねて利ざやを稼ぐことが多い。そしてその交易は各地に定住する同族との取引を基盤としていた。
 後に同地に住んだウイグル商人(といってもウイグル王国に住む商人でソグド商人も存在していたので)、ソグド商人の交易ネットワークを継承した。
 ソグド人のネットワークの形成、5世紀より本格化。その理由としては、アフガニスタンあたりから勃興した遊牧民エフタルがソグディアナまで支配領域に組み入れられたことがあげられる。良く知られているモンゴルの登場で東西交流が活発にはかられたという話と同じく(当然モンゴルより小規模だが)、そうして遊牧国家の支配下に置かれたことで中央アジア一体に統一的交通システムが機能するようになって交易の安全性が増して、交易活発になった。
 6世紀後半ごろには、中央アジアのオアシス諸国にササン銀貨が広く流通するように。しかし7世紀はじめに唐が建国されると、そうした地域が直接・間接的な支配下に置かれる。その支配と同時に交通システムが整備され、公道の治安が保たれたことで遠隔地交易が容易になり、交易活動は『中国内地と中央アジアを直接に往来するダイナミックなものになっていた。』(P57)
 そうして統治下に組み入れたことで、鎮守軍をその地域に置くことになった。そのときに兵に払われる給与や軍糧を買い上げる資金として絹(当時絹唐内地で貨幣として用いられていた)が多くこの地域に流れこむ。そうはいっても7世紀は流入量はまだそれほどでもなく、そうした絹の量が増えるのは8世紀になってからだそうだが。
 そのように当時オアシス諸国は交通・交易の管理権を失ったものの、唐の軍事支配化で軍需景気にわいていた。その『八世紀を境として、オアシス諸国は西アジアの貨幣が流通する経済圏を離れ、中国の貨幣が流通する経済圏に完全に移行していった』(P70)。
 また同時期には交通が容易になったこと、そうした多くの絹布の流入もあって『経済の要となる穀物や、絹布、家畜などの物価』に中国内地と大差なくなり、経済的に同化。
 8世紀後半にソグディアナ、イスラーム圏に飲み込まれる。このことでソグド商人の東方交易衰退したとの見方あるが、実際はイスラーム圏やステップルートとの連携がはじまっていた。
 唐が遊牧民部落などにも行政官や交通設備を配備させたことで、遊牧民は重要な統治技術と接し、『遊牧民がこの時点で、定住地を支配するに必要なさまざまな政治・経済・文化的装置を備えはじめていた』(P74)。支配領域拡大で、とんだ敵手を生み出すことに。