一古書肆の思い出 1


一古書肆の思い出 (1) (平凡社ライブラリー (244))

一古書肆の思い出 (1) (平凡社ライブラリー (244))

内容(「MARC」データベースより)

昭和大恐慌のさなか、東大卒業式の3日後に、住込み小僧として古書業界に飛び込んだ著者の修行時代。その5年半の奮闘ぶりを豊富なデータとわかりやすい文章で綴る。再刊。

 店舗を持たず『明治以前に出版又は製作された、和紙和装の古い書物(古典籍)』(P13)を専門とする古書店を経営する、昭和の全時代を古書業界で過ごしている人の自伝的な本。この巻では子供時代の明治末から大正時代、そしてまだ戦争の影が見えない昭和初期(昭和9年)までの期間を扱う。
 1巻、著者の子供時代からはじまり、珍しくも東大から一誠堂という古書店に入り、そして数年後にそこから独立し、古典籍を専門とする普通の古本を扱わない古書店を設立して、その自身の店の経営に目鼻ついたぐらいで終わる。
 店舗ないので、目録に写真と詳細な解説をつけて販売する。
 丁寧語な文章はなんか年齢に相応しい重さと言うか、枯淡な味わいみたいなものがあっていいな。
 『「雪焼け」(積雪に強く反射する陽光のため、皮膚が焼けて、火傷の様に痛む。膚の皮がむけ、激しい時にはライの様に溶ける)になって、悲鳴をあげる。手足に幾重も包帯を巻く。次兄などは、毎年耳までひどくやられて、耳形が変わってしまったほど。』(p32)雪焼け、そんなおそろしいものなのか。
 著者が生まれ育った長岡の町家、当時まだ本をろくに持っている人がなかった。別段、貧乏というわけでなく、むしろ裕福な家であるのだが、そうであるというのはちょっと驚くな。もちろんこの時代(明治末)でも、東京や大阪などの大都市ではそれとは様相が全く違ったのだろうけど。
 東京で『アラビアン・ナイト』を買ってもらい、はじめて自分の本を手に入れたことに純粋な喜びを示しているのは、なんだか読んでいて心が温かくなる。
 小学校の途中から東京へ来る。中学より、兄夫婦のもとに寄寓する。13コ年上で実業家の兄に、その多読癖と記憶力がいいことで期待され、援けられていたという関係性なんか好きだわ。
 『講義には五、六回か七、八回出席しただけで、あとは正門前の本屋さんの店頭に、文字通り山積みの、講義のプリントを買って、どうやら試験に間に合う程度に勉強』(P62)そんなの堂々と売っていたのか(笑)。何かやんごとなき事情で休んだという人のためという名目か何かで売っていたのかしら。
 はじめは出版をしようと思って、その前に実務の勉強でどこかに勤めようと思って、そんな折『古本屋へはいると、出版の動向の一端がわかると同時に、永い生命を持つ本と、すぐ読み捨てられる書物との差別がハッキリ判って、大いに参考になるだろう』(P69)、もしそのつもりあるなら世話するといわれて古本屋一誠堂に勤めはじめる。
 店員のほとんどは小学校、少人数高等小学校出がいたかもしれないというものなので、東大卒の著者は色々と異例だった。
 豊富な読書体験と、記憶力のよさで相場などを覚えるのも早かった。
 本のセリ、競り落としたら投げて渡し空中でキャッチするという扱いには、参加者は慣れているから本は傷まないみたいだけど、驚く。
 当時は古書業界に洋書詳しい人があまりいないこともあり、彼が仕入れる洋書がよく売れると職場の仲間から言われるようになったり、たまたま聞いたことのあった本を首尾よく安く落札して10倍で買ってもらったという話など、こういう話は爽快だ。
 店の売り上げ増やすために、主人に言われたでなく、そうしたらいい人である主人が喜ぶだろうなと思って、純粋にそのために努力しようという、楽観的で軽さもあるが強い決意がいいね。
 円本の登場で古本業界は打撃を受ける。それだからこそ著者、より一層奮起して、自分の裁量の範囲で売値を安くしてみて、一誠堂は高いというイメージを覆そうとしたり、図書館に買うわないかと営業したりと色々試す。図書館にはそれぞれ出入りの業者があるから、あまり功をそうさなかった。しかし昭和天皇即位式にあたって、『日本図書館協会では、この盛儀を記念して、全国の図書館の振興運動を大々的に展開』(P135)したので、その波に乗り多くの図書館に納品する。そのかいあって、一誠堂では以前は店売りの比重が高かったが、納品・外売の比重が高くなった。
 しかし当時の図書館『伝票に書名を書いて出納の館員の人に渡し、しばらく待った後に希望の本を借り出し、閲覧室中の空席を探してそこに腰かけて読む』(P122)現在の図書館とは大分趣が違うね。
 売値の一本化、毎朝定員揃って売値を決める方式に変える。そうすることで店の人間が古本の相場を覚えるのにも役立つ。そして自身の買取額と売値がわかるようになったため、古参の人には窮屈であると同時に張り合いもあったろう。こういう風に著者が色々やり方を工夫して、変えているのが面白い。
 昭和4年、九条公爵家から多くの良質の古写本などの古典籍を買い受けた。そしてその本を臨時市で入札で落札する形式で売った。
 当時古典籍はあまり高いものではないというのが古書業界でも一般的な認識だったみたいだが、この臨時市で思わぬ高値の落札が多かったこともあり、この出来事は『日本の古典籍業界全体に、投げかけた波紋も大き』(P205)かった。また、それに携わった体験は著者が古典籍を専門とする古書店を開くきっかけになった。
 その九条家本を、池田亀鑑など当時の有名な学者や名士などが見に来て、彼らが落札しようと値をつけて入札している様子を見るのは、熱気が伝わってくるし、面白い。想定外の高い値での落札となったが故に、池田亀鑑さんは、お目当ての品(「我が身にたどる姫君」と「恋路ゆかしき大将」のセット)はとれなかったけど。しかし「我が身にたどる姫君」はその後、宮内庁と前田家で見つかったきりの物語で、「恋路ゆかしき大将」にいたってはこの他に本が見つからないという『天下一品の大珍本』(P226)だったというのは驚くが、そういうものが見つかり、売買されたという事実にはなんだか興奮させられる。
 『国文・国語学界の急速な成長・深化』(P251)そして学問にかける学者たちの情熱が古写本の需要を高め、値段を押し上げる役割を果たした。そしてこの九条家本の市場の出現がその潮流を明白なものとした。そのためそれ以後、古写本の値段は毎年上昇し続けることになる。
 九条家本の思わぬ成果により、一誠堂で古典籍、特に古写本への興味と関心高まる。
 5年勤め、給与的にも居心地的にも好待遇を受けた一誠堂を辞めて独立する。親から自立するように――これは住み込み店員は徴兵後23、4で退職するのが原則だが、著者は大学出で入ったのが遅いから当時30になっていたため――催促された(以前からだが、特に強く)こともあって踏ん切りつく。
 独立して「弘文荘」として古書世界に生きることになる。著者は店を構えず、人を雇わず、専門化し知識を蓄えて珍本、稀書を扱うことにした。一誠堂からの御華客(お得意さん)がいたで、独立開店後もまずまず順調にいく。
 「元和卯月謡曲」の光悦本というとても珍しい本の百番揃いを探しておいてといわれてから、2週間後にめぐり合わせよく見つけられたというエピソードはいいね(笑)。
 甫庵道喜「十四経発揮」を高値で落札。その本は『予想通り天下一品。諸研究害に未裁。どの学者もまだ御存知ない。私が、一生を通じて、幸いにもかなり多くの機会に恵まれた、新資料発見の、第一号でした。』(P367)こういう知られていなかった本が出てくる、見つけるというエピソードはなんだか興奮するし、無性に好きだわ。
 古典籍、和本の専門書肆とうたったことが功を奏して、成功を収め、多くの稀書を買い入れることができた。特に華族家の脇坂家から希少な古事記の古写本など、古写本を買い上げて、それが昭和8年に出した目録の目玉となる。
 昭和8年、『古書販売目録、「弘文荘待賈古書目」第一号を製作・配布』(P367)平均価格の高さも、古写本の多いラインナップも異例のものだったが、また目録自体も解説や写真の多い海外の有名な古書店の目録の形式を意識したつくりでコレもまた異例だった。しかし『目録の売上効率は、普通は少ないもので二、三十パーセント、多い時には五、六十パーセント、七十パーセントを超える事は極めてまれ』(P404)であるが、この目録では80%強の売上効率となり、またその大半が『目録発送後わずか四、五日間の内に』(P404)買われるという、大きな反響を得て、成功する。こういうの読んでいるだけでも嬉しい。