渡来銭の社会史


渡来銭の社会史―おもしろ室町記 (中公新書)

渡来銭の社会史―おもしろ室町記 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)

貨幣を使用するということは大地に拘束される二次元的生活=自然経済から立ち上り、三次元的生活=貨幣的経済への道を進むことであるが、室町時代こそは日本史上初めてこの貨幣的経済への道を切り開き、着実にそれを形成した時代であった。本書はこの時代を、愛欲と煩悩にかられる業のふかい人間が主役の極めて人間味豊かな経済学の視角から、興味あふれるエピソードを交え、国際的視野のもとで展望しようという試みである。

 本の途中で歴史の専門家でないという風なことが書いてあって、ん? と思って、ググって見たら、著者は経済学者であるようだ。経済、とくに貨幣に着目して、そうした視点から室町時代が語られる。
 はじめの方(2章まで)は京都の歴史四方山をあれこれと語る、歴史を題材にしたエッセイ的な話という印象で、3章からタイトルにもある渡来銭の話に本格的に入る。
 相国寺七重の塔は、70メートルという当時では図抜けた高さを誇った。そしてその眺望によって立体的感覚がはぐくまれ、洛中洛外図の視点を提供した。
 冒頭、京都の場所表記について詳しく書いてある。
 14世紀末から15世紀の『町衆は『史記』『十八史略』『平家物語』といった類のものをも教養として読み、身につけていた』(P48)というのは、民衆がそうしたのを見につけるのはもうちょっと後かなと思っていたのでちょっと意外。でも、戦国期に町衆から教養人・文化人が輩出されているのだから、それを考えるとこの頃にそのくらいの教養がある人がそれなりに民間にいても別に驚くようなことでもないのかな?
 祇園祭、はじめ(平安時代)は官主導の祭だったが、しだいに町衆(民衆)の祭へと変わっていった。室町幕府は口だけ出すが費用は出さず(出せず)、享保四年(1455年)は町衆に臨時徴税しても必要額に足りず祇園祭が中止になったが、明応九年(1500年)には町衆は費用を自分たちで拠出して、山鉾建立・巡行をして祇園祭を執り行う。そのことから1500年当時の町衆の経済力の充実度がわかるし、このあたりから町衆が主体の祭へと完全に変わっていく。
 土倉は室町幕府の収入源で多くの税金が課されたが、この業界全体の規模は拡大していった。
 そして幕府財産・収入の預託を受ける有力な土倉である、公方御倉こと納銭方御倉は、租税徴収の請負から管理・運用までまかされていた。そのように幕府権力機関に入り、それをたてに中間搾取をしていた土倉に庶民は当然良く思わず、他方幕府はますます土倉の財力に寄りかかっていく状態となり、土倉と幕府の癒着は必然なものとしてあらわれる。
 分一徳政令、一割を幕府に上納することで借金帳消しが公認されると規定した徳政令。嘉吉徳政令で土倉に想像以上の損害が出て、土倉役という税収入が入ってこなかった結果として、財源確保のため、徳政令の内容をどう変えるかという『苦心の産物といえるものが分一徳政令』(P87)。そうはいっても民間から分一の収入は当然のことながら入ってこない。
 五山寺院も土倉と同じく金貸しとその金の運用をして、収益の一部を幕府に納めていた。そのため幕府も一揆の歳は五山を特に護衛していた。しかし応仁・文明の乱で五山の被害が大きく、経済力も衰退。五山に頼れなくなったことで、幕府の財政面での土倉への依存を決定的にする。
 寺院が貸した祠堂銭は、寺院の祠堂帳に記載することを条件に嘉吉徳政令(1441年)以来徳政の対象外扱いが通例となっていた。しかし利子は月2%で年24%と当時では低利だったため、土倉は寺院からその金を借りて、それを原資として月5〜7%で貸し付けていた。また「合銭」とは利子のことではなく、『一般大衆から利子つきで銭を預かりこれをより高利で他に貸付ける』ことをいう。そして『このことから、高利貸しのことを当時利倍人とよぶことになるわけである。』(P100)当時から預金なのか少額出資なのかしらないけどそういうことあったとは知らなかった。
 分一徳政令である長禄徳政令一揆後一月経て出されたものであるので、一揆で私徳政をしたものには意味がないが、その時点でも『貸付原資の提供者とそれを受け入れている土倉等との関係』(P104)、つまり合銭関係が残っている。つまりこの分一徳政令は幕府の収入確保(一割)だけでなく、それを収めさせることで合銭関係をチャラにすること目的とした。そして長禄令では、祠堂銭であっても、それが合銭として土倉等に流れ込んでいる場合は間接的に徳政の対象となるとした。
 つまり長禄徳政令(1457)は幕府は特権を利用して収益を得ている寺院勢力に、そうしてはいけないという教訓を与えるという名目で、収益確保と土倉の保護の双方の目的を達そうとしたもので、その相応しい名目となる理由を考え付くために必要な機関がこの1ヶ月と言う期間だった。
 長徳令に先立つ、享徳徳政令(1454)でも、分一徳政令は出して、その金額を納めれば『貸借関係の破棄を公認するとした。しかしこの関係を土倉等と借金大衆との間のそれとしたため』(P106)失敗に終わっていた。とはいえ、『長禄徳政令よりも約五十年後の永正元(一五○四)年九月の徳政一摸に際しても、実効のほどはほとんどない形骸化した分一型徳政令が惰性として出された。』(P106)ようなので、長徳令の形式は根付かなかったかな?
 15世紀の土倉の合銭の内容と生成過程、17世紀英国ロンドンのゴールドスミスの預金の貸付・貸付とよく似ている。
 北条泰時御成敗式目で、利子制限法である利倍法を設けて、元本額以上の利息はとってはいけないとした。
 室町時代に貨幣的経済は発展していたというのに、日本で貨幣を作らなかった理由として銅の欠乏があげられる。江戸時代にはむしろ銅を中国に輸出しているくらいなのに銅がないというのはどういうことかというと、当時の日本では酸化銅から銅を抽出することはできても、硫黄と結合した硫化銅から銅を抽出できなかった。
 硫化銅からの銅の抽出は文亀・永正年間(1501〜1521年)に可能になったが、そうして得た銅から銀を抽出することができなかったため、以前の金を買って銭を買うのに変えて(あるいは加えて?)、その銅を中国に輸出して銀を含んでいる分だけ多少割り増しで代金を貰い(中国は日本より銅や銭に比べ、金・銀の価値が高かった)、その分の銭を輸入することになった。銅に含まれた銀を抽出できるようになるのは戦国期に南蛮の技術を導入してから。
 そうして銅を輸入せずに銭を買ったのは、銭の国際的通用力が高かった。そして、もし室町幕府が独自に銭を作っても、日本全国に通用させる力は持ち得なかっただろう。その点、世界でも通用力がある銭、中国貨であるなら日本全国に通用力を持ちえた。
 撰銭令は基本的に鐚銭を排除するものでなく、『悪貨・鋸銭といえども、使用できるのなら、それぞれの状態に即応するウエイト・制限をつけて活用させよというのが撰銭令』(P208)。中国からの輸入だけでは追いつかず、排除したらなりたたないほど貨幣経済が成長していた。そのため、『銅銭の輸入、したがってその供給と、それに対する需要との間に見られるアンバランスという事態の間隙をぬって、またぞろ米穀類の貨幣代用化という動きすら起りかけたことがある。貨幣と米穀との貨幣機能をめぐる対立には根深いものがあって、ことしあればと米穀はつねに貨幣のしめる座をねらっている。この場合もそうであったが、このような前時代的な事態の復活を抑えるためにも、少々の悪銭でもそれを動員することが必要であった、ということを撰銭令が物語っている。』(P208-9)
 100種もの銭(人によっては150種)、渡来銭が用いられていたというのはその種類の多さに驚く。