遊牧民の肖像

遊牧民の肖像―自由な草原に生きる (角川選書)

遊牧民の肖像―自由な草原に生きる (角川選書)

【ハ゛ーケ゛ンフ゛ック】  遊牧民の肖像

【ハ゛ーケ゛ンフ゛ック】 遊牧民の肖像

内容(「BOOK」データベースより)

トルコ共和国にはユルックとよばれる遊牧民がいる。いまなお遊牧生活にふみとどまるのは、遊牧が「自由」な生活様式だからである。簡素さと透明感にみちた遊牧社会は広大な大地の上に展開される。本書は、かられとともに暮らして見ききした遊牧生活の姿を、個々の人生の軌跡をたどりながら、生活史の側面から記した同時代的な記録である。

 以前からこの著者の「遊牧の世界」がちょっと気になっていたが、この本がamazonでバーゲンブックになっていたのでページ数も少ないし、こちらからまず読もうかなと思って購入。注に「遊牧の世界」を『本書の姉妹篇としてしていただければさいわいである。』(P278)とあったので、内容的にだだ被りってことはなさそうで、そこだけちょっと心配していたので安心した。「遊牧の世界」では『畜群の管理技術、家畜の認知体系、経済活動、移動の実際など』といった、遊牧生活のあり方や技術が書かれているのに対して、こちらでは著者がそうしたのを調べた時に世話になったムスタファ家族を中心にそこで出会った遊牧民の人々の挿話を通じて遊牧民たちの肖像、ライフヒストリーを書いている。そうはいっても、冒頭の2章は遊牧生活についてのあれこれについて書かれていて、遊牧民の人々のエピソードが中心となるのは3章以降だが。また、その他にもムスタファが所属していた遊牧民集団の近代の伝説的リーダーデデ・モッラについての挿話を見ながら、共和国成立以後のユルック集団が銅変わったかを見たり、遊牧地に近接する村からの強い圧力(力関係の逆転)やユルックを村近くの森林から排除する動きが露骨にでてきているという状況下での村と遊牧集団との間のいざこざなどについても書かれる。デデ・モッラ、伝説的リーダーであるが定住化へリーダーシップを取ることをしなかったために、定住化した彼の属した遊牧民集団が他の集団のように同じ集団が一つの場所にまとめなかったなどの欠点・不満はあるようだが。
 トルコの遊牧民ユルックの人々について書かれる。本書で書かれる調査当時の79-80年で既にかなり規模が縮小しており、将来消えるだろうことは見えていて、当人達も遊牧生活の最後が近いことを自覚していたようだが、それから35年ほど経過した現在はもう消滅してしまったのだろうか。
 著者はムスタファのチャドルに同居させてもらい遊牧民の調査。ユルックは冬、夏、秋と営地を変えて暮らしているが、各営地に居住する期間は冬営地が一番長く、夏や秋はチャドルは一度はった後は移動するまでその場所で過ごすが、冬営地ではチャドルをはる場所を最低3回以上変える。著者が滞在した79年から80年のムスタファ家族の移動では秋営地、10月前半まで滞在し、冬営地に20日以上かけて200キロ以上移動して、11月はじめには冬営地に到着し5月まで滞在。その後五月末から、夏営地に半月かけて移動する。この冬営地と夏営地には、約2000メートルの標高差がある。秋営地にいくのは8月頭で、夏営地からは1日程度の移動となる。
 基本ユルックがマルと呼ぶ家畜の概念に含まれるはヤギ、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダの五畜であり、基本的には各世帯はその五畜のすべてを所有する。これは一つの種類の家畜だけだと病気などが広がった場合、畜群が崩壊し、遊牧生活ができなくなるリスクを負うからそうしたリスク分散のために5種の家畜を各世帯が保有している。『一世帯あたりの平均的な家畜所有頭数は、つぎのとおりである。ヤギ三〇〇頭、ヒツジ一五〇頭、ウシ二〇頭、ラクダ六頭、このほかにロバ二〜三頭、イヌ三〜五頭がみられる。』(P16)ただし、家畜所有数は放牧地の条件によって変化し、山岳地域に偏っている場合は潅木を食べられるヤギやそうした場所で主な輸送手段としてラクダしか使えないのでヤギとラクダが多くなり、逆に平坦な放牧地に草原地域が多いと、ヒツジやウシ、ウマが多くなる。
 遊牧民の基盤が掘り崩され、遊牧集団の規模も小さくなり、遊牧している人の数も20世紀前半から、1980年ごろには10分の1程度に減少。
 ムスタファ所有の畜群が夏秋で被ったオオカミの被害は4件を超える。実際に被害をうけなかった、来週含めると数字はもっと大きくなる。オオカミの被害にあう回数って、どのくらいなのか全くイメージつかなかったけど、そんなにあるものなのね。
 『オオカミは喉頭から、クマは腹から、ハイエナは後脚から、ジャッカルは尻から獲物をおそう』(P59)とユルックの間では言い習わされている。そのため遊牧民は飼っている(オオカミと闘う)番犬であるチョバン・キョペックに鉄製の首輪をつけることもある。
 最も長く滞在する冬営地は、夏にいる山岳地帯と違い地中海沿いの村落の近くにもうけられることが多いこともあって、その期間に遊牧民の子供が学校に行くことは可能。しかし冬営地にいる期間が一番人手を要する時期で、子供を学校に出すのは労働力の関係上なかなか厳しいものがあったようだ。
 ユルックの若者は多くの距離を移動しているが、放牧に時間を取られるため、町を見る機会は意外に少ない。戸主が営地で、週に一度、近隣の町に立つ市に出かけて、買出しや乳製品や羊毛の売却などを行う。
 オスマン朝末期の徴兵網からユルックはすっぽり抜け落ちていて、ユルックが国家制度の枠組みの中にからめとられるのはトルコ共和国成立以後のこと。そして共和国は定住化政策をとって次第に締め付け強くなり、定住するものが増え、遊牧集団の規模は小さくなっていったし、村との間の力関係でもそのため弱くなった。
 ドクトル・ムサ、伝統的治療と近代治療双方に精通している人で、お金は取らず治療の礼は家畜などのモノで払う。医薬品の使い方など医療の技術と知識の基礎は、徴兵されて衛生兵になっていたころに覚えた。しかしその技術を重宝されたため、7年にわたって兵役をつとめたってどういう理屈でそうなるのやら、いまいち謎。徴兵で入って、終わった後スカウトされて、兵隊(衛生兵)として留め置かれたのではなくて? まあ、その衛生兵時代には手術の手伝いをしたこともあったなど、熱心に技術を学び、実地での訓練も行った結果、並みの医者の水準を抜く実用性を持った医者だった。こういう存在なんかいいね、魅力的。
 夜間にヒツジやヤギの子群を交換すると、子が乳を飲み干すことを防止され、搾乳の効率が上がる。しかしおのお互いに管理を任せるカトゥシュの関係は、最も信頼できるものの間でしか成立しない。そのため、そうしているチャドル間の関係はもっとも緊密。
 ヤギ群、ヒツジ群の血が濃くなりすぎないように、定期的に購入、売却、群れの一部の交換などを行っている。また、そのためヤギの母系に名前をつけて血統を覚えて、濃くなりすぎないように配慮している。
 そしてムスタファは兵役後、トルコ国民としての意識がおぼろげに見に付いたと書いてあるのを見ると、やはり国民意識の形成するのに有効な手段なんだな。
 ユルックの結婚は、9割が掠奪婚の形式を取っている。もちろん、掠奪婚の成立には相互の了解があらかじめあるじちが前提となっている』(P244)ため、掠奪といったところで無理やり拐すということではなくて双方が示し合わせた駆け落ちみたいな感じ森などに入り、双方家族が結婚の了解が成立すると潜んでいた場所から出てくるという感じ。また、そうした掠奪婚の形式をとっていたのは正式の結婚式は、4日間にわたる行事で莫大な支出をともなうため、支出を減らすための意図もある。