正倉院

正倉院 (岩波新書)

正倉院 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)

「海のシルクロード」を旅した宝物、輸入品が長らく国産品といわれていた謎、そして屏風の下貼に使われていた輸入品購入申請書が語るものは何か―。著者は、正倉院にまつわる興味深いエピソードを紹介しながら、古代の日本が外国文化を採り入れ享受していった様子をたどり直し、秘められた日本文化の深層を探る。


 章ごとにテーマを分けて区切っているせいもあるのか、個人的にはテーマに興味わいて読んでも読みづらくて楽しめないことが多い岩波新書としてはかなり読みやすかった。
 正倉院には中央アジアを含む海外の文物がおさめられているけど、シルクロードの物の流れとしては中国好みのデザインの品物が作られるなど、あくまで最終執着地点は中国で、日本はあくまでそうして中国に運ばれてきた物品を中国から、あるいは朝鮮経由を細々と輸入しているというような立ち居地。
 正倉院に収蔵されているものを見ると天平時代は国際色豊かだったようにも思えるけど、実際には中朝以外との人の流れはほとんどない。天平文化の世界性は、シルクロードを通じて多くの物品が輸入されてそれを受け入れた隋唐文化の世界性に由来する。また、当時の日本には、文化的にも国産工芸品に見るべき洗練された品もなく、人や物の流れ的にも文化的にもまだまだ全然未熟な辺境地域だったということがわかる。
 まあ、過度に当時強い国際性あったとするように、現在の価値観とか過去の憧憬とかで歴史を曲解して称揚するのはダメですよということかね。
 正倉院宝物について触れながら、当時の日本の文化や交易などについて書かれる。
 『中国文化圏でも西方的なスタイルのガラス容器が作られていた』(P7)とは意外。そうしたガラス容器はいかにも中東・欧州的と思えるから。紺瑠璃杯のコップ部は西アジアのガラス容器だが、台座部は中国で作られた。
 古代の日本で、インド旅行を試みた日本人ほとんどいない。せいぜい9世紀はじめに唐へ入った金剛三昧という僧侶と、60歳を過ぎて天竺へ行こうとした(そしてその途上で死亡した)真如親王くらい。後者はたしか澁澤龍彦「高丘親王航海記」の主人公とかでもあるし(読んだことないが)おそらく有名なんだろうけど、前者ははじめて知ったがそんな人いたんだ。
 当時まだまだ新羅の中継貿易で多くのものが輸入されていた。そして新羅はわざわざ頭を下げる形式をとってまでそうした貿易をしていたのだから、それで新羅とその商人は結構稼いでいたっぽいな。
 日本から唐へ持っていた品のリストを見ると一次産品または単純加工品ばかりで、当時の日本の工芸、美術のレベルでは、まだ輸出できる水準に洗練されたものがなかったようだな。
 宋や元とは国家間の交流ないため、せいぜい二流・三流の絵画しか入ってこなかったが、天平時代は実質的に朝貢貿易していた、当時の国家レベルでの貿易ということもあり、正倉院宝物にある文物の質は高い。
 古代日本では金銀は長く朝鮮からの輸入に頼っていたというのは意外。対馬で銀が産出されたのは674年、陸奥で金が産出されたのは749年。そのため唐代は金銀器が使用されていたが、当時の日本ではそうしたものの使用きわめて少ない(真似しようと思ってもできなかった)。戦国期あたりの金銀などを豊富に産出していたイメージがあるからちょっと驚いた。
 当時は『唐・新羅との交渉があったにも拘らず、八世紀に渡来した唐人は決して多くなかった。』そのため『奈良時代に盛んになった唐風の文化は、輸入品とその模倣によって支えられており、技術の移転や交流は少なかった』(P78)。
 『古代文化の発展は渡来人による技術導入に負うところが大きいという「常識」』(P78)があるが、実際には渡来人が増えて技術導入がなされたというのは違う、むしろ当時は各種工人の交流少なかったようだ。唐は律で出入国制限を定めていて、特に朝貢貿易の主役となる絹織物製造・製紙・製陶の工人への規制は強かったと考えられるため、日本などへの技術の伝播が中々なされなかった。日本に渡来人が増える時期は中国・朝鮮半島の動乱がある時期で、当時はそうした時期でなかった。
 また、その唐の律を真似た日本にも当時出入国制限の律の条文にもあり機能していたと考えられている。
 古代に輸入された南方の産物は多くが消耗品だったため、品が残っておらず、そうしたものが残っている正倉院はその意味でも貴重。
 木簡は単純に紙の代用として、『木簡が単独に使われていたのではない。記録や伝達に使う木簡はもちろん、荷札のような場合でも、何らかの形で紙の文書と併用されていることが多い。』(P153)控えや伝票の類として用いられることが多かった。そうしたものがいずれ紙に記録され、木簡は破棄されるというのが普通の流れ。
 王勃という生前有名だった唐代の代表的詩人で、その詩序を抜き出した「王勃詩序」が正倉院にあるが、その中の文言を下級官吏が木簡に書いた手習いが遺されている。そのことから当時の下級役人でもそうした物(漢詩文)を読んで、その文句を手習いしていたことがわかる。