歴史・時代小説ファン必携 【絵解き】戦国武士の合戦心得

歴史・時代小説ファン必携 【絵解き】戦国武士の合戦心得 (講談社文庫)

歴史・時代小説ファン必携 【絵解き】戦国武士の合戦心得 (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

戦国時代、命懸けの戦場で武士たちはどのように戦ったのか。武器・武具・旗差物のいろいろから、鎧を着ての斬り合い、騎馬武者同士の組討ち、鉄砲戦、槍隊の遭遇戦、船戦さ、女武者、切腹・首実検の作法まで。誤解されてきた武士たちの戦いの実態を、正確な考証とリアルな絵で再現したビジュアル歴史読本

 結構長いこと読みたいな後は思っていたけど、こうした資料系の本は読むのに時間がかかるだろうからと延び延びになってしまった。しかし読み始めてみれば非常に読みやすく、武器と戦闘の話だけでイラストが豊富でイメージしやすいため、途中で飽きることもない面白さ。興味の薄いものだったり、とても細かい分類やイメージできない儀式などについてが丹念に記されていると目がすべるので、そうしたものがなかったのも思ったより早く読めた要因であろう。
 イラストで刀を抜いてから斬りつける動作など武器を扱う際の動きや体勢が見られて、どういう動作をしているのかなどのイメージをしやすいのは嬉しい。
 日本刀の祖形、平安中期頃に登場。
 『日本人には古来、刃物が身を守ってくれるという観念があった。仏門に入った者でも短い刀を一腰は身につけていた。十二、三世紀の絵巻物を見ると、僧以外にも、工事現場の番匠(大工)、市の商人、荷運びの農民までが守り刀を差している。刀を差していない者は、帯びの背に鎌や小型の斧を差した。』(P19)こういうのを見ると、敬神党(神風連)が刀は武士だけでなく、日本人の核心にふれる存在といったのは案外(といっては失礼だが)的外れなものでもないのかな。
 『使用後の大太刀は大抵の場合、血のりや変形で鞘には収まらないので、多くの場合鞘は捨てていたという。巌流島で大太刀の鞘を捨てた小次郎に、武蔵が、勝負を捨てたかといったのは、妥当な喧嘩の売り方ではない。』(P21)
 打刀、『帯に差し、刃も鞘の中で上を向いている。柄を握って腰をひねれば、太刀より素早く、前方に円運動で引き抜ける。/ 前下がりの刀差しとは、出会いがしらの喧嘩を前提としたやくざじみた柄の悪い風俗なのである。 /そういう刀は多くが中身も粗悪な量産品』(P23)。そして室町時代はそういった刀を『片手で握り、軽快に振り回す刀方が一般的だったのだろう。』(P24)
 出陣などの儀式として行う「三献の儀」栗(勝ち栗)、鮑(打ち鮑)、昆布(よろ昆布)。なんかしらないが今まで恥ずかしいことに、なんとなくそれを出陣前のゲンを担ぐ食事だと勘違いしていた(カツ丼みたいな)が、あくまで儀式で食事ではないのか。しっかり記憶しておかなきゃな。
 桶狭間今川義元が輿に乗っていたのは、彼が館を出る直前に落馬してから輿に乗り換えていたからなのね。なんだか肥満で馬に乗れなかったというまことしやかなゴシップ的な説も聞いたことがあるが、直前ウマで出発しようとしていたのだから、馬に乗れなかったほど肥満と言うのは流石に嘘か。太っていたかどうかの真偽はわからないけど。
 『馬甲と言っても、馬に金属の鎧を着用させると負担過剰になるから、どこの国でも綿甲に近いものを採用している。』(P38)日本でも古墳で馬面が発掘されているのでそれもあったと思われ、また源平合戦太平記には馬冑(うまよろい)の存在が記述がされ、戦国時代に入るとそうした記述も増える。
 馬の尾の付け根は急所で、心得のある武士はそこを叩いて馬を棹立ちさせて相手を落馬させることを狙う。そのため、そこを防御する馬甲部もあるようだ。
 抜刀走り、刀の刃を上にして少し外に向けた刀を右肩に担ぎ移動。
 素肌武者、具足をつけない武士のことで裸と言う意味ではない。着物は着けているし、『汗止めの鉢巻や肩籠手程度は身につけていたと想像される。』(P51)例えば、大阪城戦の時の雑賀党山口兄弟の兄は素肌武者として戦ったが、兜がついていないと上士格の死と認められないため兜は身に着けていた。
 貫という動物の皮を使った毛靴、上級の武士が乗馬する際に使った。
 『刃物沙汰になった場合、まず刀より槍を持ち出すのが正統な武士の考え方である。歌舞伎で名高い幡随院長兵衛を、旗本奴の水野十郎左兵衛門が浴室に誘い込んで殺害する際、水野は大身の槍を構える。これを旗本奴の臆病と見る向きもあるが、いつは違う。屋敷内で敵を討ち取るときの礼儀なのだ』(P68)。
 戦国時代、兵の弱い家ほど接近戦を嫌うため、長柄の槍を使った。平均3間(約5.4メートル)で、北条や上杉では2間半(約4.5メートル)で、織田では3間半(約6.3メートル)だった。
 また武田の持ち槍には穂の下に木槌がついていて、叩きつける際に敵頭上から打撃を加えることができるようになっていた。
 移動の際、長柄槍は先の方を持って引きずって歩くため、石突は丈夫に作ってある。そして『長柄足軽の行軍中の街道は埃がもうもうと舞い上がったという。』(P81)
 武田雑兵弓、あえて鏃を矢柄にゆるく巻く。そうすることで、抜いても鏃が肉に残って、それで相手は苦しみゆっくり肉が腐り、死ぬことになる。
 えいえいおう。大将が「えい、えい」といい、配下が「おう」(応)と答える。そのため一人、あるいは皆で「えい、えい、おう」とは言わない。『「えい」は「良いか」という問いかけでもある。/「命のやり取り定まったこの機械に、お前の戦意は充実しているか/と味方同士問いかけあう意味も持っていたのだろう。』(P159)心構えの問いかけと、応答。
 今昔物語の袴垂自体は実在じゃないが、『正四位下右馬頭という貴族の地位にありながら盗賊の頭となり、追討の宣旨を蒙ること十五回』(P181)の藤原保輔がモデルとしているようだ。
 巴御前の他にも木曽義仲の軍には山吹(「平家物語」)だか葵(「源平盛衰記」)という女武者がいた。巴御前は妻ではない、戦働きも義仲の身の回りの世話や夜の相手もする人だったようだ。通常、寵童がその役割をするようだが、義仲はそれを好まなかったのが女性である巴をその位置に。
 応仁の乱時に「飛砲・火槍」の記述あるなど、ポルトガル人が火縄銃をもたらした半世紀以上前には西日本では中国から伝来した火器が使用されていたみたい。