八月の砲声 下

八月の砲声 下 (ちくま学芸文庫)

八月の砲声 下 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

1914年6月28日、サライェヴォに響いた一発の銃声がヨーロッパに戦火を呼びこんだ。網の目のような条約で相互に結ばれた各国指導者たちは、開戦準備に奔走する一方で戦争回避の道を探るが、戦火は瞬く間に拡大する。情報の混乱、指導者たちの誤算と過信。予測不能の情況のなかで、軍の用意していた戦術だけが既定方針として着々と実行され、世界は戦争の泥沼に沈んでいった。―第一次世界大戦の勃発に際し、政治と外交と軍事で何がどう決定され、あるいは決定されなかったかを克明に描いてピュリッツァー賞に輝いた、戦争ノンフィクションの傑作。下巻は戦局の転回点となったマルヌ会戦の後まで。

 戦線が硬直する前、開戦直後の8月の戦場の動き、各国の軍司令部や将軍の働きや心情の動きなどが詳細に書かれ、タイトルどおり、8月まで書いたところでこの本終わる。そのように上下巻で開戦前から戦線が硬直する前の8月までの各国の政治家や将軍などの心の動きやその時の国民の動きなどを多くの史料を用いて、精緻かつリアルに再現した歴史の本で面白い。
 日本の第二次世界大戦は、欧州の第一次世界大戦である(そのときの欧州の戦闘の戦訓を取り込めなかったからそうなった)という話をどこかで見かけたけど、たしかにフランスの攻勢第一主義と精神主義的で犠牲を多く出す感じ、司令部の秘密主義(開戦当初、戦況を表にしないように情報統制されていて、負け続きなのを最初のうち知らなかった)とか、ドイツの計画が楽観的で最初は見事な勝利だけど結果的に敗れる感じとかを見ると、その話をなるほどと思える。
 8月20日、ロレーヌの戦場で攻撃第一主義の炎は消える。しかしジョフルら司令部はまだまだ攻撃主義、多くの犠牲を払っていたにも関わらず、捨て去りがたかったようで方向転換を明確に示すとまではすぐには行かない。
 しかしランルザック将軍(仏)はドイツ軍の右翼の強大さを把握して適切な行動をとろうとしているのに、攻勢第一の司令部からは正確な現状認識を臆病さととられて能力疑われるし、意見とりあげられないし、トップのジョフルから疎まれるし、友軍である英軍とは行動の足並みがそろわないとさんざん。
 8月23日、独軍右翼の正面である仏軍左翼、戦闘に破れ退却を決める。ここでフランスが短期決戦で勝利する目がなくなった。
 東部戦線、計画ではそちらでのある程度の劣勢は想定内だったが、東プロイセンは王家の故地であり、貴族たちの要請もあったことで、宮廷は動揺し、西部戦線から一部を引き抜いてそちらに充てることになり、最終的にその分が足りないことで、一気呵成にフランスを倒すという当初のプランは失敗し戦線は硬直することになる。ドイツが勝機を逃すことになった、決定的な判断。
 東部戦線、フランソワ軍(独)は好機と見て命令無視して攻撃かけて成功する。しかし、仕方ないからそれにほかの軍があわせようと動いた結果、彼の軍は事前にちゃんとしたい地に着けたから勝利できるも、急に移動が必要とされ攻撃開始までに位置に付けなかったほかの部分では負ける。こういうのを見ると、いかに好機だとて連携疎かにしてはいけないということがわかるし、フランソワ、名将なのかそうでないのかどうなのか判断に迷う。
 ロシア、早期にフランスを助けるために急いだせいでいろいろとぼろぼろで損害大。後に長引いたこの戦争によって革命が起きることを知っているから、なぜそこまで献身したのだと思ってしまう。
 ロシアの東プロイセン侵攻第二軍の司令官サムソノフの最後のシーンが印象的。自身が指揮していた軍が壊滅し、湿地帯で馬が使えないため暗闇の森の中、徒歩で歩く。マッチを使い果たすとあたりは完全に闇に包まれ、一行ははぐれぬように『たがいにしっかり手をつなぎ、おぼつかない足どりで歩きつづけた。ぜんそく持ちのサムソノフは衰弱がひどくなった。参謀長のポトフスキーに彼は何度も繰り返して言った。「皇帝はわたしを信頼してくれた。こんなみじめな負け方をして、皇帝にあわす顔もない――」。約一〇キロ進んだところで、彼らはひと休み下。午前一時だった。サムソノフはもなから離れ、ひとりでいちだんと暗い松の木立ちの陰にはいって行った。夜のしじまを破って銃声がとどろいた。』(P135)切なさや哀しさのある美しさがある感じ。
 ドイツはロシア軍に死者・行方不明者約3万、捕虜9万2000という損害を与える大戦果を上げたものの、一方で同盟国のオーストリアはロシア軍相手に死傷者25万、捕虜10万という大敗を喫した。
 ドイツ、ゲリラ/テロ行動での抵抗をすると人質を殺すと脅して、実際そうしても一向に納まらない住民の狙撃などの抵抗に、報復行動もエスカレートする。
 ベルギーのルーヴァンでの破壊行為、公然と報復としてその市の非戦闘員を攻撃したことを発表。また文化財の多くある図書館を焼いたので、他国は愕然。反響がドイツにとって好ましくないと知って、弁解するも時すでに遅し。そのルーヴァンデの行いで中立のアメリカの国民感情や大統領の心証を損ねることになり、連合軍に大いに益となった。
 ジョン・ジェリコー提督、12歳6ヶ月、身長137cmで軍に入ったというのを見て、いくらこの大戦時には高齢だったろうとはいえ、そのくらいの時代でもそんな低年齢で軍に入っている人がいた、入れたのかと驚き。
 長期戦となったら、ドイツの封鎖とアメリカとの友好両方不可欠だが、封鎖して中立国とドイツの貿易を抑圧することはアメリカの公海自由航行権、貿易の自由に抑圧を加えることでも両立困難だった。特に厳格な人間で、その性質どおりに中立を固守しようとする米大統領ウィルソン相手ではなおさら。しかしドイツ相手の貿易の減少よりもはるかに連合国相手の貿易額が増加額が大きく、連合国の勝利とアメリカの利害が一致することになってきたから、そうした信念の刃も鈍ってきた。
 西部戦線では、英軍が大陸で自軍を損害させるを恐れるあまり、戦闘に対して逃げ腰になっていたため、フランス軍と有効な連携をとれないでいた。フランスの総司令ジョフルが頼み、その上仏大統領に働きかけて、駐仏のイギリス大使経由で大統領の言葉を伝えて、せめて光栄は撤退させずに英軍が退却した印象を与えないようにしてくれという要請があっても、なお拒絶するというほど徹底的なものがあった。
 フランスの総司令官ジョフル、戦争初期攻撃第一主義に固執したことで大きな損害も生んだが、劣勢になっても「驚嘆に値する冷静さ」を保ち、周囲の人間を驚嘆、感動させた。『その冷静さあってこそ、危急存亡の重大事に、仏軍は剛毅を失わず結束を保ちえた。』(P312)その性質が最初の失敗を生んだと同時に、国内に攻め込まれる危険な段階での仏軍の崩壊を食い止めていた。
 ジョフル、司令部(大本営)の中では退却開始時点においては、パリは地理的存在に過ぎなかった。そのためパリ防御するための特別な方策は立てない。しかし仏軍の重鎮ガリニエや政府は、パリが特別な存在だという意識があるため何とか防御するために軍を引っ張ってきて、防御固めるために司令部相手に苦闘。
 危機的状況に瀕して、議会は荒れるもパリ防御で意見一致。そして政府は泣く泣くパリを捨てて、その機能をボルドーへと移す。
 英国軍、実際には先頭を避けていたが、戦争の実態が報道されておらず、勝っているかのような報道をされるのにドイツ軍がフランスに進軍している。開戦当初2、3週間はそんな感じであったが、「タイムズ」は特別記事で英軍が敵の猛烈な攻撃に耐え、「光輝ある退却」をして、フランスを救い、ヨーロッパを救っているという大いに奮った記事を出して、その物語が浸透。
 そのため何万ものロシア兵が北海経由でイギリスに来て、そこから西部戦線へ行くという噂が一時期、広範でもっともらしくささやかれていた。
 大陸派遣英軍の指揮を執るフレンチの戦闘に及び腰な姿勢を見て、痺れを切らし、キッチナーは自らフランスに行き、彼に命令するほかないとして、フランスへと赴くことになった。
 ドイツはフランスが戦力を温存しながら、退いているのを敗走だと勘違い。そのため補給薄く、兵隊の休息もないままどんどん進んで消耗。
 ドイツの参謀総長モルトケ、フランスが敗走しているのではなく、組織だって退却していることに勘付くなど見通しは確かなものがあるのだが、開戦時に出鼻をくじかれたことが響いて、いったん反対されると意志を通しぬくことができなくなっているようだ。
 『ジョフルという人物がいなかったら、独軍の行く手をはばんだ連合軍の戦列などそんざいしなかっただろう。仏軍は一二日間というもの、苦難に満ちた悲劇的な退却をつづけながらも、組織がくずれ、散乱した破片の集団と化さなかったのは、彼のゆるがぬ信念がものをいったからだった。彼以上に聡明で、頭の回転が早く、より自主的な考えをもった司令官がいたならば、開戦当初の基本的な過失は避けられたかもしれない。しかし、こっきょうのたたかいでのざんぱいのあとにフランスが必要としたあるものを、ジョフルは確実にもっていたのである。仏軍に退却を停止させ、その状態からしても配置からいっても、ふたたび攻撃発起を可能にし得た人物は彼をおいてほかには考えられない。』(P424-5)
 ドイツ軍がパリを陥とせず、彼らの快進撃の停滞の合図となった、そして長期戦になることを決定したマルヌ会戦までの戦争最初の30日が書かれて、そこまででこの書は締めくくられる。
 上巻の感想でも下巻にある訳者あとがきの『『ローマ帝国滅亡』を書いたギボン、フランス革命を書いたカーライルも、徹底的に客観的だったとはいえない。要するに程度問題である。私見をもたない歴史家の書いたものは、時計が時を刻む音を聞くようで読めたものではない。』(P437)という部分を引用したように、そうした語られる人物たちの描写のおかげで退屈さを感じずに読めた。