拉致と決断

拉致と決断 (新潮文庫)

拉致と決断 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

恋人と語らう柏崎の浜辺で、声をかけてきた見知らぬ男。「煙草の火を貸してくれませんか」。この言葉が、“拉致”のはじまりだった―。言動・思想の自由を奪われた生活、脱出への希望と挫折、子どもについた大きな嘘…。夢と絆を断たれながらも必死で生き抜いた、北朝鮮での24年間とは。帰国から10年を経て初めて綴られた、衝撃の手記。拉致の当日を記した原稿を新たに収録。

 以前に図書館で単行本をパラパラと木になったところから順不同に読んだが、それでほとんど読んでたので実質再読。
 解説で、市民運動家たちからの生還した拉致被害者はもっと多くの知っていることを明らかにすべきだと非難に対して、著者は解説を書いている人に『自分が余計なことを喋ったために生きている被害者が殺されたらどうするのか』(P314)と言っていたというエピソードからもわかるように、非常に慎重な方なので意識的に他の拉致被害者についての話を除いている。
 そして自身の拉致されて北朝鮮という異界で過ごした体験、拉致された一人の人間としてのさまざまな心情を冷静に語っている。そして住んでいた招待所での世話役や監視員たちのエピソードや北朝鮮庶民との生活についての話が書いている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはならずに、生活の苦しさを共有していたという意識があるからなのだろうか、北朝鮮庶民への視線は温かなものがある。
 また家族に余計な迷惑をかけないための配慮だろうけど、家族とかのエピソードとかも少なくていまいち家族の各人のキャラクターがくっきりと浮かび上がってきていないな。
 こうした強い慎重さは、北朝鮮で内心をひた隠しながら生きていかなければならなかった長年の生活から育まれた知恵なのかなと思う。しかし北朝鮮ではその国で生まれ育ち生きていく子供たちのために、子供たちにも自分たちの出生を隠して在日朝鮮人であるとして育てていた。
 日本に残って子供たちを待つという決断をしたとき、子供を北朝鮮に残してきていたために、日本に残りたい気持ちが強かったが夫婦ともどもそうと決断するまでにためらいがあった。
 拉致されて自由を喪った。『招待所生活の自由度を語るには、奪われた自由よりも、与えられていた自由を説明したほうが早いのかもしれない。』(P22)考える自由はあれども日本に帰りたいと思い微妙な反応をしてしまい、そうすると監視している指導員らがそうした反応に神経を尖らせていてわずかでも行動として出ると駄目なので、全くの自由とはいえない。私物の所有・処分する自由はあっても、それを貸したり売買するときの約束違反を訴える権利はない。あとはせいぜい住んでいる招待所の周辺を散歩する自由があるくらい。そのように語られた長い北朝鮮の生活で残されたわずかな自由について説明しているが、そうして列挙されているのを見るとそのあまりにもな少なさに改めて驚く。
 招待所での食事情、著者夫婦は招待所の等級でいちばん低いもので、日本のレベルから行ったら精精食うには困らない程度の素朴でつつましいものだが、『北朝鮮では、この上なく裕福なものとみなされた。ある日誰かに「国民みんなが、あなたたちぐらいに食べられたら、共産主義社会は実現したといえるだろう」と言われたときは、さすがに驚いた。党が国民に鳴り物入りで宣伝し、目指している理想社会がせいぜいその程度のものなのかと思うと、気が抜ける一方、その言葉に、「特別待遇」されている私たちに対する妬みの響きを感じたのだ。』(P71)
 北朝鮮、慢性的な食糧不足だったがソ連が存続していた80年代まではまだ良かったが、90年代に一気に食糧事情悪化。
 そのころ、著者の子供たちが行っていた学校の寮の食事も生きるのに必要最低限のカロリーを与える程度のメニューに変わった。そのため子供たちがちゃんと成長できるかというのが現実の恐怖として現れてきて、休みに子供たちが帰ってくるときのために肉や魚をできるだけ節約して保存して食べさせ、子供たちが学校へ戻るときには煎った大豆を持って行かせて一学期持つように一日2回5、6粒ずつ食べるように念を押し、成長剤も買って持たせ、次の休みに成長してかえってきてくれと祈るような気持ちで学校へ送り出していた。その涙ぐましく切実な願いには強い親心を感じて、厳しい状況の話ではあるがあたたかい気持ちになる。
 共同農地では実りが乏しいときでも、自家で生産物が処分できる個人農地には各家が力を入れているため、そこの収穫は多い。そして共同農地では単作ないし2毛作なのに対して、個人のうちは3毛作が当たり前。
 何か歌うように促されたときに当時北朝鮮で流行っていた望郷を歌った歌を歌ったら、親切な人に注意されたことで、その後ふとしたときにそうしたものが出ないように、夫婦間でもそうした思いを語ることが少なくなった。
 戦争になったときに破壊されるから、農村や地方都市にお金を使っても無駄だという意識があり、そして首都平壌は国家の威信のために立派にしなければいけないから一極集中で力を入れている。そのため北朝鮮の人々のピョンヤンへの憧れは非常に強い。
 毎週の自己批判させられて、平時は形式的で表面的な自己批判をしていたが、『人間、毎週毎週、形式的で表面的な自己批判ばかりをしていると、ふとたまに正直に話してみようという心理にもなるらしい。自分の正直さを示すことで組織の信頼を得ようという意識もあるのだろうが、魔が差すというか、心の油断というか、無性に心の中にあるものをさらけ出したいという衝動に駆られるときもあるのだ。』(P161)そういうのを聞くと、案外自己批判って批判的な人間をあぶりだすのに、全く無意味というわけじゃないのね。
 2002年、今まで安く抑えられていた配給米の値段が数百倍に上がり、公共料金なども大きく値上がり。労働者の給料も20倍程度に上がったが全体的に目減りし、その給料引き上げのタイミングも一突き遅かったため貯金を使い果たし、家財を売らなければならない人が続出した。そうしたのは、先に給料上げるだけの金が国庫になかったからという世知辛い理由だろうということらしい。
 著者家族が帰国した後の2009年には、100対1のデノミ政策が断行し、今までの貯金の意味が失われた。
 一般的な葬式では哭などの儒教的な伝統儀式は規制されているが、領導者の葬式に際しては、そうした古式に従った振る舞いがよしとされる。その他にも90年代以降に経済的に危機に陥ったことによって、体制強化のために、領導者への忠孝を求めるなど、忠孝といった儒教的なものを持ち出して国家体制を維持させる団結の手段として利用するようになった。