犬の力 下

内容(「BOOK」データベースより)

メキシコの麻薬撲滅に取り憑かれたDEAの捜査官アート・ケラー。叔父が築くラテンアメリカの麻薬カルテルの後継バレーラ兄弟。高級娼婦への道を歩む美貌の不良学生ノーラに、やがて無慈悲な殺し屋となるヘルズ・キッチン育ちの若者カラン。彼らが好むと好まざるとにかかわらず放り込まれるのは、30年に及ぶ壮絶な麻薬戦争。米国政府、麻薬カルテル、マフィアら様々な組織の思惑が交錯し、物語は疾走を始める―。

 上巻から引き続き非常にリーダビリティーが高くて面白い。ちょっと陰謀めいたものになってしまったのは少し好みでないものの、バレーラ一統の興亡、その浮沈の軌跡を見るは面白かったし、哀しくも美しいシーンや印象的なシーンがいくつもあったのも良かった。
 アメリカ麻薬取締局(DEA)のケラーが「叔父貴」を逮捕した際に、黄色毛が密告者だと勝ち誇るようにして叔父貴に嘘を言った結果、黄色毛の家族がバレーラ一統に殺されるたことをきっかけとして、メキシコの麻薬業界では黄色毛メンデスとアダン・ラウルの兄弟の血みどろの戦争が始まった。それぞれの親戚だったり、相手方についた密売人を殺すという血腥い殺人合戦が繰り広げられる。
 そのように謀略をめぐらせて同士討ちにさせている復讐鬼となったケラーだが、彼がアメリカに麻薬を持ち込ませまいと頑張れば頑張るほど、アメリカ国内で麻薬をさばく際の価格がつりあがるため、メキシコの麻薬組織としては短期的には経費が上がるが長期的には利益が増す。皮肉にもケラーが麻薬組織を倒すために尽力すればするほど、彼らのカルテルに、麻薬業界に利益をもたらす。そうした意味では、彼は麻薬戦争における同士、麻薬ビジネスにとって必要な要素となってしまっている。
 アダン、昔ながらの組織を変えて、麻薬密売をビジネスとして洗練させる。組織形態や商売の形をシンプルに入りやいものにした。叔父貴は麻薬ビジネスに20世紀を持ち込んだが、『アダンはそれを21世紀へと導いていく』(P32)。密売人を従業員ではなく個人事業主にして、彼らがある程度の割合を上納すれば、メキシコ国内での積荷の保安だったり、売上金の洗浄をしてくれるサービスを提供する。本当にビジネスっぽい説明に驚く。そしてこうしたシステムで密売人になるハードル下がる。
 『”赤い霧”は、何百に及ぶ右派の武装テロ組織と、その出資者となる麻薬王たち、何百人もの陸軍士官と数十万の兵員、数十の情報機関と警察組織を文字どおり包括していた。/ そして教会も。』(P47)それなりに目的があるとはいえ、敵となるような立場ともつながっているのか。しかし規模が大きすぎて、なんだか陰謀論じみたものとなっているのだが、どこまで本当のことなんだろう。
 一応暗黙の了解で安全地帯となっていた、表向きの商売(資金洗浄用)のバーで、黄色毛が保安局員を動かして大規模な襲撃を受けたアダン・ラウルの兄弟、危ういところだったがそこに居合わせたカランの快刀乱麻の活躍に助けられて逃げおおせることができた。半ばアル中となっているカランが活躍するアクションシーンは格好良くて好きだなあ。カランがベストとほど遠い状態でもそんなパフォーマンスを見せたことも含めて。
 アダンはそれまで黄色毛を追い詰めていると思っていたが、そうした襲撃をさせるほどの力があることを認識、敵が案外余力を残していて、どこかに彼らの儲けのルートが残されていることを知る。その黄色毛の資金源は、アメリカのメキシコ系の有力な実業家が援助して、トンネルを作ってそれで国境を越えて麻薬を運んでいたようだ。
 叔父貴は黄色毛に買収された少女が彼に毒物を食べさせようとしていたことを見抜き、その少女に彼女が出したものを「食べるんだ」と静かに、穏やかに圧迫を加えて食べさせて殺して、その遺体を犬に食わせたというシーンはすごく印象的。
 たしか以前にこのシーンが抜粋されたブログか何かの感想を読んで、この本を読みたくなったことを思い出した。まあ、上下あわせて1000ページと長かったから、なかなか読むふんぎりがつかずに実際呼んだのは奏して興味を持ってから何年も経ってしまったけれど。
 しかしそこを抜粋されたものを読んだときはもっと静かな恐ろしさがあるようなシーンと言う印象を受けたが、こうして実際に読んでみると叔父貴が愛人に裏切られた静かな悲しみをたたえ、女に自分を苦しませて殺すつもりはなかっただろうから、それを食わせて安楽死させてやろうという慈悲心もあるシーンだったのでちょっと印象が違ったな。どちらでも印象的なことは変わりないが、実際の文章は哀しい美しさがある感じ。
 パラーダ枢機卿アメリカやメキシコの政府もかかわる大規模かつ陰謀的なマフィアたちとの癒着を知る。そしてそれを知られたことで、サル・スカーチらが始末しなければと動く。
 アダンの私的な護衛で忠臣であるマヌエル・サンチェス、誰かと思ったらアダン覚醒のときに彼と共に拷問にかけられて、アダンの尽力で助けられた人か。
 アダン・ラウルのバラーダ一統はパラーダを通じて黄色毛の組織に和解を申し入れ、一度会談の場を作ることになる。パラーダはそれで血が流れるのが止まることを期待しているが、両組織はその機会に相手のトップを殺してやろうとたくらんでいる。
 そうして互いを出し抜こうとして発生した銃撃戦によってパラーダは死ぬ。しかしその死は偶然のものと装われたが、実際はサル・スカーチとの取引で情報が外に出ることを防ぐための暗殺であった。
 パラーダを慕う民の「正義を、正義を、正義を」の声が政府を動かし、国内の汚職警官を罷免し密売人らを摘発したが、彼を殺した元凶であるアダンやラウル、黄色毛の3人には逮捕につながる情報を出したものに500万ドルと言う大金の賞金をかけたが見つからない。3人はそのころメキシコを脱出していた。黄色毛はグアテマラバレーラ兄弟はアメリカへ。
 黄色毛、整形しようとして隠れようとしたが、その施術の前にバレーラ兄弟の手のものに薬品を致死量投与されて死亡。そして叔父貴ミゲル・アンヘラ・バレーラはひそかに刑務所から出てベネズエラへの隠居生活が始まり、この闘争はバレーラ一統の勝利で終わる。
 カラン、パラーダ暗殺の際に裏取引を知らずにとめようとしたがそれを果たせず、またパラーダが今際の際に「汝を赦したもう」といったことで一層精神的に不安定になり、その後アメリカに移ってから徹頭徹尾酒びたりの日々を過ごす。しかし大桃・小桃、かつての相棒オ-バップと再会し、彼らにつれまわされ回復し始め、そして彼らに引き連れられて麻薬密売人から金を奪う仕事をする。しかしそうした情報をいくらか金をもらって手に入れたのだがその入手先がアート・ケラー。アート・ケラーも復讐鬼となってから、ずいぶん変わったというか、すれてしまったな。
 アダンがトップをはる盟約団、金を動かすことでメキシコ経済を不安定にさせて一旦壊し、それを援助することで自らの影響力を伸ばす。しかしこの組織、流れに乗って影響力を増すとかしなくても、経済を力技でゆさぶって影響力を増すようなことができるとは随分な組織なのだな。考えられないほどの力をもつマフィア。
 そのようにバレーラカルテルが非常に力強く、彼らは週800万ドルの利益を上げている。アート・ケラーは劣勢であるものの、アダンの愛人ノーラが協力者としている。彼女はアダンが彼女の友人パレーダを殺させたことを知り、ケラーに協力。
 メキシコ政府が嫌がる武器の輸入をテコに一大作戦に取り掛かって、アダンらを捕らえようとするが、バレーラ兄弟を取り逃しノーラも保護できず、その作戦失敗に終わる。
 ラウルは兄のアダンの愛人ノーラが密告者だと気づき、アダンにそれを伝える。最初はそれを信じず、直接彼女に会わせろと言っていたアダン。しかし叔父貴のように女に骨抜きにされて駄目になってはならないと拒絶する。そしてアダンも最後にはそのことに悲しみながらもせめて自分に手を下そうとする。そうして静かな場所で殺してあげようとアダンはノーラを別の場所にいざなった。しかしその後にラウルは密告者は彼女でなくファビアンだという情報を掴まされて、はじかれたように兄の元へ行くが、その時に丁度アートらの強襲作戦が始まり、彼は銃撃を受けて重症を負う。それでも彼は、銃撃を受けた直後にもかかわらず襲撃、銃撃への驚きや怪我について悪罵を口にするよりも早く、兄に彼女は密告者でなかったと伝える。そうしたラウルの兄を想う気持ちの強さ、兄の愛する人を殺そうとしたことを後悔し赦しを請う気持ちの純粋さと、実際に彼女が密告者で、その彼女を生かしてしまったという悲劇性もあいまって美しく胸を打たれるようなシーンとなっている。
 そしてラウルは今際に、助からないとわかって楽にさせてくれという。それまで助かるさといっていたアダンだったが、そうしてラウルに懇願されてその思いに応えて彼を楽にさせるために銃を抜き、弟の頭に狙いを付ける。それに対してラウルが『ありがとう、兄貴』(P347)といっているのが泣けてくる。彼らが悪党ではあっても、その悲劇性も美しさも損なわれない。むしろそうであるからの純真な思いの交流に、コントラストの美しさを感じるのかもしれない。
 そしてファビアンが密告者だと信じたアダンによって、ファビアン一家は皆殺しにされ、それがこの小説の冒頭シーンとなる。
 アート、アダンの娘の病気を利用して、彼の妻を脅してアダンを裏切らせて、アダンをアメリカに越させて彼を逮捕することに成功。
 アートがアダンを殺さなかったことで、パラーダを殺した例の情報を法廷に出されると困るため米政府は取引でアダンを牢から出そうとするが、その取引を突っぱねたことで、再び事態はこじれて、アートに命の危険が訪れる。
 救出作戦後にノーラと共に行動をして互いに惹かれあった関係を築いていたカランがアートの暗殺を要請されて、それを受けたが最後に気が変わり、一転してアートの味方として狙撃をするこになったことでアートの勝利で終わる。この最後のアクションシーンはアート危うしという雰囲気で緊張感があるのだが、それが一転して彼の勝利で終わるというのはいいね。
 まあ、彼が勝利してその情報が暴露された後も一気に情勢が変わることはないし、まだ麻薬戦争は終わっていないようだ。しかし、そうしたちょっとビターな後味も悪くない。