増補 『徒然草』の歴史学

内容(「BOOK」データベースより)

無常観の文学として親しまれてきた『徒然草』。一方でこの書は、鎌倉末期から南北朝時代の宮廷社会や生活空間、和歌や家集のこと、東国・鎌倉の文化など、兼好が見、聞き、感じたことの記録でもある。これらの記述が史実とどう関わり表現されているか、それを叙述の視点や方法・内容、時期などについて歴史学の立場から検証。等身大の兼好の実像に迫り、時代や社会の息遣いを読み解く。最新の研究成果を反映した増補改訂版。

 読む前は、てっきり「徒然草」をたたき台にして、それが書かれた時代を見るというような本かと思っていたけど、「徒然草」の挿話に登場する人物や物事についての説明がなされたり、歴史学的な視点からどういう意図でそのエピソードを書いたのかについての推察やそのエピソードはどういう経路から知ったかだったり、書かれていることから兼好がどんな人物でどういう人物との親交があったのかなどについて見ていくという本で、歴史学者による「徒然草」の注釈・解説書みたいなもの。「徒然草」自体に興味がある人が読む本だった。
 まあ、「徒然草」に書かれている事物についてさらに歴史的な説明を加えるというのもあるから、最初の思い込みも全くのはずれと言うわけでもないけどね。
 テーマごとに分けて、兼好の意図や挿話に書かれている人物などについてが書かれている。
 それなりに面白かったけど、個人的には「徒然草」は断片的にいくつかの部分文を読んだり知っているだけで、通しで全部読んだことはないので、読んでから読むべきだったなとちょっと思った。そうしたら読み流していたけど、その記述にこんな意味や意図があったのかなんてもっと楽しめていただろうから。
 兼好の理想とした時代、「いにしへの聖の御世」として最も重視した時代は9世紀末から11世紀にかけての摂関時代。それを理想としたのには、末法思想によると11世紀半ばより末法の世が到来したと考えられたため、その直前の摂関時代を基準に考えたというのもあるようだ。
 また後鳥羽の時代までは朝廷が自立していたということもあり、その時代を大きく評価している。そして兼好自身が生きた時代に直接につながっている亀山院時代には批判的。そのように兼好が抱いていた各時代についての感覚なども書いている。
 雨が降ったときに佐々木入道は庭の水を吸い取らせるために鋸屑を使ったことが感心されたという話を聴いた吉田中納言は、そういうときは乾いた砂を使うのが故実であると指摘したという177段の話について、その吉田中納言というだけでは誰かわからないが、吉田経長という人だの日記に前日に小雨だったときに庭に砂を使用したというのが出てくるから彼がその『庭の儀の奉行の故実にうるさい「吉田中納言」』(P101)だとわかるというのはちょっと面白いな。
 兼好が「徒然草」に鎌倉幕府のかつての首脳の倹約的エピソードをいくつか載せたのは、当時の東国・武家たちの奢侈を批判的に感じていたからこそ。なんだか、そうしたエピソードを見ると、当時は日本は貧しかったのだなあと感じるし、そういう捉え方で引用しているのもあるけど、そういう意図を知るとそれはあくまで倹約で貧しさとは別個な感じだという当たり前といえば当たり前な事実に改めて気づく。まあ、そうは思っても当時の日本が豊かでなかったことを物語るという先入観がべったりとついているから、こう改めて指摘されるとそういえばそうだと気づくことになるわけだけど。
 106段の「せうくわう上人」が落馬した際に、馬の口を取っていた男を批難したときに、何とおっしゃるのかよくわからないと返したら、「何と言ふぞ、悲修非学の男」と言ったが、そのとたん「極まりなき放言」をしたことに気づいて悔いてそのまま馬を引き返したという話がある。この中に登場する「せうくわう上人」だが、その「くわ」の部分を一字とみなすなら、堂の草字「た」に近い、そのため「せうたう(証道)上人」だとも考えられる。そしてそうだとしたら証道上人は高野の上人で、「悲修非学の男」というのは偉大なる先達が自分をへりくだって言った言葉だということに言った直後に気づいて、それを罵倒の語として使ったことに恥じ入ったということにもなり、この話は単に暴言をいったことを反省したというだけでなくそうした意味もあることになる。そうした深いところを知ることで意味が変質するというのは面白いから、こうした話好きだな。
 兼好、勝負事はよろしくないと書きつつも、同時にそうした遊びの道具があったらついやってしまうとも言っている。
 近習や近臣がいて、院と芸能の人々との交流の場であった厩御所で、兼好は囲碁や双六をしたり、その道の上手な人との接触があったのかもしれないとのこと。
 兼好、代作で作った歌も詞書でそのことを書きながら歌集に入れているのか。それはちょっと不思議と言うか面白い感じだな。
 和歌の師でもあり、友人でもあった二条為定が彼の歌集を最初に見るべき人と想定していた。「徒然草」も同様。
 『徒然草』が書き上げられたのは、元弘の乱後醍醐天皇足利尊氏らによる倒幕)がはじまる直前も直前、その1年前から始まる以前のその年元弘元年のことみたい。
 兼好は内裏勤めをしていたが、蔵人ではなく、滝口として雑役に奉仕していた。滝口は、滝口の武士が有名だが、滝口として選ばれたのは武士だけでなく、芸能の試験によっても選ばれるため、兼好はおそらく学問によって選ばれたのであろうとのこと。『若い兼好は洞院家に出入りするなか、後二条天皇の滝口に推薦され、天皇に仕え、やがてその後に堀河家に侍として仕えるようになったのであろう。』(P320)
 そして『兼好が職能に生きている人々の姿や言動を生き生きと描いたのは、彼らに近いところに生き、住んでいたからと考えられる。』(P322)自身も学問と言う職能によって生きていたため。
 「徒然草」を作ったのは、文筆で生きるために自身の能力をアピールのためという側面もあった。そして実際に依頼されてものを書くことを頼まれたり(「太平記」にも高師直の恋文を執筆したことが書かれている)、和歌の代作をしていたことがしられる。