ドン・キホーテ 後篇 一

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「後篇」では、ドン・キホーテの狂気は大きく様変わりする。もはや彼は、自らの狂気に欺かれることはない。旅篭は城ではなく旅篭に見え、田舎娘は粗野で醜い娘でしかない。ここにいるのは、現実との相克に悩み思案する、懐疑的なドン・キホーテである。


 前篇を読み終えてから3ヶ月空けて、後編を読み始めたが相変わらず読みやすいなあ。
 序文で、著者の知人(友人ではない)が勝手に書いた別作者が書いたドン・キホーテの『続編』について、わたしの反論や罵詈雑言が見られるだろうと思っているだろうが、怒っていないといいつつも、『読者のあなたは、わたしがあの作者を薄のろ、ばか者、思いあがった出しゃばりとののしることを期待しておいでかも知れないが、わたしにはそんなつもりは全然ないのです。』(P11)と読者が期待している言葉の列挙という体で結局そうした言葉を書いているのは笑った。
 ドン・キホーテは全篇の最後で家に連れ戻されて療養している。相変わらず平常時は理性的なので快癒したかに思われたが、ひとたび騎士道物語に関連する事柄を話させると相変わらずの狂気にとらわれていることは変わっていない。そうした彼が再び遍歴の騎士として旅立つを決意して物語は始まる。
 ドン・キホーテに「ドン・キホーテ」(前篇)が出版されていることを伝える、学士サンソン。こういう趣向があるとは知っていたものの、そうした話を見るのはなかなかに面白い。当人が読んだというわけではなく、彼から話を聞く。サンソン、本で読んだかのドン・キホーテと知って、大仰に敬意を表し、相手の調子に合わせながら彼を見て楽しむという司祭らと同じ対応を初対面からする。そうして当人たちが、前篇の出来事のあれこれをあらためて語っているのはちょっと面白いし、もし前篇の内容を忘れている人がいたら、それで思い出せるという狙いもあるだろうね。
 注にスペインの郷士ドン・キホーテの本来の身分)に関する古い諺に「郷士は、服が破れても繕わぬ」というものがあり、下級貴族である郷士はつねに粋でなければならないので、服が破れても次のあつらえ服が出来上がるまでそうしていると思わせたというもので、たいてい貧困にあえいでいた郷士がいかに体面を重んじ、見栄っ張りだったかを伝える諺とあったが、郷士も貧乏だったのね。もちろん、ふさわしい格式の生活をするにはということだろうが。武士は食わねど高楊枝的な諺だ。
 ドン・キホーテの旅立ちには当然家のものは反対していたが、決意は変わらず。そして学士サンソンも家のものに頼まれて説得にくるも、逆に旅立ちの決意を賞賛する(これには策があってのことだったが、その策は後にあえなく破れる)。そしてドン・キホーテは再びサンチョ・パンサを従士として遍歴の旅に出る。
 ドン・キホーテでは、というかこうした昔の西洋の小説では、章の本文に入る前に「この章では○△が語られる」的なその章に書かれる内容を説明するあらすじ的な文章(読み直すときようなのかな? )があるが、九章で『ここでは、この章で明らかになることが語られる』(P145)と何一つ説明していないことが笑えた。
 まず、ドン・キホーテは旅立ちに際して思い姫であるドゥルシネーア姫に会いに行く。そしてドン・キホーテはサンチョに彼女の家へと案内させるが、確か前篇で彼女の家に手紙を書いてサンチョに渡したけど、途中で司祭にあって彼に返事をでっちあげてもらったとかなため、会ったこともない。そしてドン・キホーテ自身も風の噂から、近所の娘を原型として姫にでっち上げたので、思い姫でありながら面識なし。そうしてどうしようかとサンチョは苦心して、思い込みの強く、風車を巨人と思い込み、羊の群れを軍勢と勘違いする主人の何でも騎士道物語的なものに変換してしまう主人の性質を利用して、適当に近くにやってきた百姓娘をドゥルシネーアだといいくるめようとする。
 そうして言われても、ドン・キホーテの目には単なる百姓娘にしか見えずに困惑したものの、サンチョが強弁したため、自分の目が魔法使いによってそうして見えているだけだろうと納得いかぬ風ではあったものの最終的にとりあえず納得した。しかし「後編 一」の段階では、前回までの遍歴の旅とは違い、騎士道物語を信奉し、それを事実と思っているという点は変わらないが、そうやって事実を変に騎士道物語的なものと見間違えるという場面はほとんどなかったな、少なくとも風車や羊の群れ的な大きな間違いは。そうした意味では狂気や他人へのはた迷惑度合いはだいぶ抑えられている感じだ。
 迷惑的にはライオンの件があるけど、思い込みでの見間違いは洞窟での話がそれに当たるともいえるけど、ガスかなにかで昏倒している間に見た夢の話だとも思えるので、そうした見間違いはないのではないかな。まあ、あくまで読み終わってそういえばと思ったことなので、もしかしたらすぐに思い出せないだけで、小さなところとかで、そうした思い込みでの見間違いがあった可能性もあるけどさ。
 それに悪魔やキューピッドの格好をしたのが乗っている怪しい荷馬車に遭遇して、呼び止めたときに、その荷馬車の連中から自分たちは劇団の一座だと説明されたら、普通にそういうことかとドン・キホーテは納得していて、思い込みで騒動を起こしていないしね。
 12〜15章、ドン・キホーテと同じような狂気をわずらう騎士、あるいは本物の遍歴の騎士が登場したのかと思ってみたら、どうやら学士サンソンの芝居で、彼がドン・キホーテと勝ったら相手の言うことを聞くという条件を付けて決闘して打ち倒すことで、家に戻せば、そうしてした約束ならば破られないし、そうして家にいる間に妄想が頭から消えることも期待できるという計略だったみたいだけど、戦いに敗れたことでその計画もまた破れる。そしてその戦いで学士は骨を折られて、むかっ腹が立ち、ドン・キホーテへの復讐の手立てを考えることになるということなので、再登場しそうだが、どう出てくるかな。
 ドン・キホーテは国王に献上するためライオンを輸送してきた人に無理強いして、自分の勇気を試すため騎士道物語注の人物がやっていたように、ライオンと戦おうとする。無理にけしかけさせるが、ライオンが檻から出てこなかった。そのため輸送者であるライオン使いはあなたの勇気は証明された、相手が戦わないのなら不戦勝などとして檻を再び閉める。この「冒険」によって、ドン・キホーテは自分の二つ名を「愁い顔の騎士」から「ライオンの騎士」に改める。
 旅の道中でであったドン・ディエゴの家に数日間世話になるが、狂気と同時に思慮深さや礼節を併せ持つドン・キホーテが歓待されているのはいいなあ。狂気をわかっていても、無礼でないから、そうして歓迎される。前篇の状態のドン・キホーテなら、なんか騎士道物語的なものを見出して、それを「冒険」の始まりと思い込んで迷惑をかけるのがパターンだが、今回のように普通に何もせずに終わり、普通に歓迎され互いに良き印象のまま終わるというのはいいなあ、なんだか心が和む。
 19〜20章、盛大に催される結婚式に行きあい、そこで両親によって金持ちの男と結婚させられることになったが、幼馴染で互いに惹かれていた男ぶりのよく細々とした才のあるが貧乏な男がいた。貧乏な男は一芝居うって、絶望のあまり自死しようとしたように見せて、死の間際に結婚することで、彼を救えと友人たちにその婚礼の儀をしている二人に圧力をかけて、長者も彼と結婚してもすぐ死ぬから、その死後結婚すればいいと思い、その要求に対して肯定したが、実際は自殺は嘘で、この幼馴染の男がその美人な女と結婚することになる。それで芝居がばれた後険悪なムードで一触即発な状況となったが、フル装備のドン・キホーテが新たに生まれたカップルの味方をしたため、血が流れる事態にならずに済む。そうして新婚の二人に感謝され、歓待を受ける。このエピソードは、珍しくドン・キホーテが人の役にたったエピソードであり、物語中の遍歴の騎士らしい所業だ。
 22〜23章、、モンテシーノスの洞穴にロープで下ろしてもらっているときに昏倒したときに見た騎士道物語的なエピソード。それはドン・キホーテが何かのガスで昏倒して見た夢だとは思うが、作者もそれを意識して書いたのだろう。中世とかでも鉱山でカナリアを使って、危険を認識していたという話も聞くし、たぶんガスとか詳しくとは行かなくてもそういうものを認識していたと思うし。そして、これもドン・キホーテは実際にあったことと思い込んでいるが、これもガスの作用による幻覚的なものかもしれないから、前篇の見間違いとはまたちょっと趣違うよね。それにその後、臨終の際にこの冒険は勝手に作り上げたものだと独白したというから、この時点ではあるいは本物と思っていても、少なくとも最後には本当じゃないと思うようになっていたということだしね。
 武器を積んだ騾馬を急がせている男と道中に出会い、その後貧困ゆえに傭兵として戦場に行くことになった男とも出会う。その武器を運んでいた男が今は急いでいるから話を聞くならここでといっていた旅籠にたどりついて終わり、次回はそこで男の話を聞くところから話が始まる感じかな。
 しかし今回は、サンチョが偽ったドゥルシネーア姫だったり<森の騎士>(鏡の騎士)という学士サンソンが演じていた存在など、相手が騙そうとする意図があれば騙されているけど、ドン・キホーテ自らが全く別個のものを騎士道物語的なものだと見間違えて冒険をするということはなくなったな。