レトリック感覚

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、近代ヨーロッパに受け継がれたレトリックは、言語に説得効果と美的効果を与えようという技術体系であった。著者は、さまざまの具体例によって、日本人の立場で在来の修辞学に検討を加え、「ことばのあや」とも呼ばれるレトリックに、新しい創造的認識のメカニズムを探り当てた。日本人の言語感覚を活性化して、発見的思考への視点をひらく好著。


 レトリックについてほとんど知識がないので、具体的にどういう表現をどういう呼び方で呼ぶのかとか、各レトリック(あや)の定義を知ることや、今まで読んできたり自然と使っていた表現が丁寧に説明されていて、それを意識できるようになるということはかなり面白いし、勉強にもなる。
 レトリックは相手を欺くために使われるわけではなく、限られた言葉である物事をより正確に表現し、相手に伝えるために使われる。
 「序章1」では、西洋でのレトリックの盛衰の大まかな流れが語られ、「序章2」では開国後日本で修辞学はどのように受容され、あっさりと捨てられてしまったのかが書かれる。
 一つのレトリックのジャンル(直喩、隠喩、換喩、緩叙法など)にそれぞれ1章を費やしながら、どういった表現がそうしたレトリックになるのかだったり、さまざまな文章を引用しながら、そのレトリックがどういったことを表現しているか、あるいはどういう表現をするのに適しているかなどについて詳しく説明されている。また、レトリックが人間の言葉の広げ方や認識のパターンということにも着目している。
 一つのジャンルとしての修辞学は古代ギリシアの弁論術より始まる。そしてレトリックは聞き手を惑わすものであるとしてしばしば悪口をたたかれながらも、西洋世界で発展していき『近代に入っても、教育面で、つねに一般教養科目の総仕上げの地位を占めていた』(P22)長い伝統を持ち重要視されてきたものだったが、19世紀末から20世紀にかけてその地位から滑り落ち、やがて省みられなくなった。
 欧米の潮流から日本もレトリック排斥から20世紀がはじまったが、欧米では伝統があり、そうした表現が要求されるから、より表現力が巧み。そして欧米では1970年代ころよりレトリックの関心が復活。
 『効果的な表現のための形式というべきかパターンというべきか、そういう公式を、ことばの《あや》と呼ぶ。欧米の用語で言えば、フィギュール(フランス語)とか、フィギュア(英語)ということになる。』(P49)『常識的な文のかわりに、いささか異質な、ちょっと目立つ表現形式を与える形式を、フィギュールと呼ぶのであり、そういうフィギュールが、何十種類もかぞえられてきた。それゆえ、古典レトリックにおける修辞とは、とりもなおさず多種多様なフィギュールの研究であった。』(P50)本書ではそうしたフィギュールを「あや」と表現している。
 「第1章 直喩」『ものごとの様子を表現するために、「XはYのようだ」、「YそっくりのX」……というぐあいにたとえる形式を《直喩》と呼ぶのだ。』(P64)引用されている自称レトリック嫌いの哲学者モンテーニュの『法王ポニファキオ八世は、狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだという。』(P63)は秀逸で、レトリック(直喩)を使うことで、いかに短くわかりやすく本質を伝えてくれているかがそのレトリックの効果が理解できる。
 他にも面妖な体験をしたとき人は、標準的な言葉ではその独特な体験をうまく伝える言葉がないから、その足音はまるで…のようでしたなどと苦心して不器用な直喩を使いながら、標準的な言葉でその非標準的な認識を表現しようとする。そのように『直喩ばかりではなくレトリックのことばのあやは一般に、名状しがたいものを名状せざるをえない、という欲求にこたえるための、やむをえない手法である。』(P68)レトリックは文章に味わいを出すためのもの(美辞麗句)だという説明だけでは不十分である。例えば『有限の言語(色名)によって無限の事態(色彩)をまかなわなければならない』ところに『レトリックの必然性――言語の宿命というべき発見的工夫――の萌芽』(P99)がある。そうやって無限を有限であらわさなければならないため、言語の本質的なところにはレトリック性がある。
 直喩によって類似が成立するものもある。例えば「死のような生」「白夜のような夜」など、XとYが似ていないものでも直喩によって類似性を新規に設定することができる。しかし読み手、聞き手がそれを受け入れるかは別の話。
 また、漱石の「倫敦塔」の『その頃は方角もよく分らんし、地理などは固より知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出されたような心持ちであった。』という文章を例に挙げて、「まるで〜であった。」(Y)には新しい情報はないが、「その頃は〜知らん。」(X)と対比させることでこっけい感を生み出しているもので、類似していると無用な繰り返しとなるため直喩は類似性より意外性によって効果を発揮するものもあり、『これは、古典レトリックにおける芸術的長髪としての直喩にほかならぬ』(P87)。まあ、これも直喩によって類似が成立するものでもあるか。
 『直喩のY項は「……のような」「……に似た」「……そっくりの」というような語句をともなうわけだが、その類似設定のことばづかいには制約がない。ふたつのものごとの比較をしめすことばであれば、何でもいいのだ。「……めいた」「……風の」「……形の」というような質的な類似をしめすことばでも、「……ほど」「……くらい」「……よりも……」のような量的な表示でもいい。「……顔負けの」というような、質とも量ともつかぬ語句もある。』(P89)
 「彼女は父親に似て強健だ」という言葉のように、『常識的によってはじめから認められている類似性《にもとづく》比較表現はあくまで平常文であり、意外な類似性《を提案する》比較表現が直喩ということになる。』(P98)しかし父親が実は病弱だったりした場合には、言葉のあやができて、反語的言い方となる。
 つまり『直喩は、XとYとの類似性を《提案し》、類似性《を設定する》ものであった。』(P98)。
 「第2章 隠喩」『あるものごとの名称を、それと似ている別のものごとをあらわすために流用する表現法が《隠喩》』(P101)。その例としてシェイクスピアの一文を引いて、ある人を白鳥だったり、カラスにたとえることをあげる。また、隠密のことを「犬」ということをいう。しかし単にXという言葉を入れるところに、Yと代入しているわけではない。例えば隠密を犬と言うことで、『本当は、隠喩においては、使われた語句の本来の意味と臨時の意味の両方が生きていて二重写しになり、そこに《犬である隠密》という多義的な新しい意味が出現するのにちがいない。いわば複数の意味が互いに呼びかけあう緊張関係がそこに成立するのだ。そうでなければわざわざ言い換えるにはおよぶまい。』(P106)
 隠喩を縮約された直喩などといわれることもあるが、直喩は隠喩をわざわざくどく言っているというわけではなく、隠喩は直喩に比べて誤解されるの可能性が高い。しかし誤解されかねないというとは謎に近いということで、隠喩が出てきたときにその隠喩が示しているものはほとんど瞬間でわかるが、読者・聞き手は瞬間でもその謎解きゲームに参加して、その示すところがわかったその瞬間に感じるささやかな驚きや快さを感じる。
 アリストテレスの『彼はライオンのように突進した(直喩)/ライオンは突進した(隠喩)』という例のように形式上の比較をするために隠喩と直喩は同じ内容の分で説明されていたため、隠喩のほうがすっきりしているし、隠喩は直喩より「高級」であると(2000年も)人々は考えていた。
 しかし現代フランスの言語理論研究者ミッシェル・ル・ゲルンいわく、『直喩的認識は論理的だが隠喩は論理的でないのだ、そこにこそ差がある』(P115)という。直喩と隠喩は形式的に連続しているから短縮された形などと通説では説明されていた。
 しかし隠喩のほうが適している場合と直喩のほうが適している場合があり、『隠喩のほうが元来説明不足におちいりがちなあやであるから、両様に書き換え可能な例文としては、けっきょく誤解の余地の少ない隠喩向きの例ばかりがとりあげられることとなり、気がついたときには、直喩は泥くさく口数が多すぎるといううわさをたてられていたのだった。』(P117)
 直喩はXとYの類似性を提案し、類似性を設定する、つまり『相手に対して説明的に新しい認識の共有化を求める』ものだが、『隠喩は相手に対してあらかじめ共通化した直感を期待する。それゆえ、典型的なかたちとしては、直喩は知性的なあやであり、隠喩は感性的なあやであると言うことができる。』(P118)
 つまり隠喩はあらかじめ共通認識がある用語(カラスとか犬)のイメージを別の語にだぶらせるもので、直喩は類似性を新たに見出すことができる。
 自力で飛ぶのではない矢を「飛ぶ」ともいったり、また夕日が「沈む」あるいは日が「落ちる」と言い、とんびも「飛び」、「舞い」、輪を「描く」など、標準的な表現(平常表現)のなかにも数多くの隠喩が存在する『と言うよりも、実態を見れば、むしろ平常的な表現のなかで隠喩性のないものをさがすほうがむずかしいくらいである。』(P136)
 従来の常識からはみ出たケースを言い表すためには全くの新語を作るか、従来の語を比喩的に流用するかの2つのパターンがあるのが、人類が古来大抵の場合に採用したのは「後者」であり、『その代表的なかたちが隠喩であった。』(P126)その例としては、人工「衛星」や「衛星」国、あるいは人間「国宝」・文化「遺産」などの隠喩がある。
 「第三章 換喩」『おおざっぱに単純化して言うなら、隠喩が類似性にもとづく比喩であったのに対して、《換喩》とは、ふたつのものごとの隣接性にもとづく比喩である。』(P140)
 肌の白さから白雪姫と名づけるのは隠喩だが、いつも赤いシャプロンをしている女の子を赤頭巾と呼ぶのは換喩型の名づけ。なぜなら『お姫さまと白い雪のあいだには、現実的には何のかかわりもない。(中略)ただ、色や清純さが似ているだけである。/ ところが、くだんの女の子のほうは、いっこうに赤くもなく、頭にかぶるシャプロンとは似ても似つかぬ。そのかわり、現実にそれをかぶっている。人間と頭巾は現実的にかかわり合い、まさに接触し合っている』(P142)。
 「灘」、「コニャック」、「スコッチ」など地名でその土地の名産である酒を表現する場合も広い意味では赤頭巾型の比喩。また、「青ひげ」も赤頭巾型の比喩ということができるが、髭は身体の一部であるので赤頭巾型とは区別して、「青ひげ」型の比喩を提喩に組み入れる区別方法もある。
 換喩は隣接性(縁故)にもとづく比喩だという説明が一般的だが、その隣接性の正体は曖昧で、直喩や隠喩と異なり、換喩の標準的定義は存在しない。
 またアメリカ政府や米大統領を「ワシントン」や「ホワイトハウス」と呼ぶのも換喩。ある場所(土地・建物)のある建物や人間たちをあらわす、または個々の部分品が集まって構成されている全体をひとつの大きな単体と見る換喩。
 小林秀雄の文章の「私は全体が目になっていた」(私は目であった)という表現を取り上げて、これも換喩だが、同時にその人の実感であり、「ことばの換喩は事実の換喩〔的事実〕を忠実に記述しただけであった』(P167)としている。あと〔〕内は引用者挿入です。
 「第4章 提喩」この提喩は古来、換喩と並んで最も定義が不安定だったもの。
 『ふたつの別々のものごと同士が外部的な隣接性か親近性のゆかりによって関係し合っている場合に両者が互いに名まえを貸し借りするなら、その表現は(せまい意味の)換喩である。それに対して、ふたつのものごとが互いに含有=被含有という内部的な関係にある場合、すなわち全体とその一部分と言う関係にある場合、その名前の貸し借りは提喩である』(P177)。
 しかし隣接性と含有性を換喩と提喩の区別基準にすることは不可能かつ無意味。そのため両者を一緒のものとする人も少なくない。だが、提喩に含まれるその種の全体と部分の比喩のみ換喩に含めることができるのであって、それ以外は換喩とは全く別個の一種目であり、そのため両者を区別することができる。
 グループμの学者は提喩を『Π(個体の現実的な組織としての全体と部分)およびΣ(概念の外延的意味としての全体と部分)という二系列』(P187)のまったく異質の全体と部分の関係があるとした。しかし『概念=意味にかかわるΣ様式(提喩)と、現実の事物の隣接性にあかわるΠ様式(換喩)とを』(P189)まとめて提喩と呼ぶ過ちをおかした。
 そしてΠと似ているπこそが提喩に入る。そのπとは『人間=霊長の動物であり、かつ脳が最も発達しており、かつ直立して歩行し、かつ言語をあやつり、かつ笑い、かつ衣類を着用し、かつ……』(P188)というようにある存在をある概念のものとして認めるための基準となる性質、資格の集積である。
 つまり『提喩とは、常識的に適当と期待されているよりも大きな(必要以上に一般的な)意味をもつことばをもちい、あるいは逆に小さな(必要以上に特殊な)意味をもつことばをもちいる表現である――いいかえれば、外延的に全体を表す類概念を持って主を表現し、あるいは外延的に部分を表す種概念によって類全体を表現することばのあやである――』(P194)伝統的な分類で言えば、<類による提喩>と<種による提喩>と呼ばれていたものは換喩に還元されない提喩固有の表現形式。
 類による提喩には、具体的な言葉を用いる代わりにそれよりもずっと抽象的な語句を使うことで『逆にきわめて生彩に富んだ具体性を獲得する』(P203)という作用を生む力がある。
 『辞書のなかの単語たちは、すこぶる弾力的な意味の広がりをもっている。それは、転化表現となった比喩の集積だが、そのように慣用化する比喩のうちで、隠喩や換喩ほど目立たないくせにじつはもっとも大きな比率をもつものは提喩であろう。』(P205)
 「緑化」が緑の建築物を増やそうとは意味せず、木や植物を増やすということであるのも慣用に転化された提喩だし、いわゆる「飲む・打つ・買う」の三拍子は、その3つ全てが慣用に転化した提喩である。
 種による提喩は、類による提喩よりも応用範囲が広い。若葉に風そよぐ季節〜のような時候の挨拶も種による提喩にあたる。
 類による提喩は白雪姫型であり、種による提喩はドン・ファン型。ドン・ファン型とはあるタイプの人を「ドン・ファン」みたいに、そういうタイプのキャラクターの名前で呼ぶことをいう。
 『現代語の比喩ということばを西洋古典レトリックにあてはめてみれば、だいたい、直喩、隠喩、換喩、提喩の四つがそれに該当すると見てよい。』(P214)いわゆる比喩は1章から4章で扱ってきた類型のことをいう。
 『古典レトリックは、効果的で印象的な言語表現の技巧、つまり説得と美のための手管として研究してきた。しかし私は、それらの分類が結果的には、当の研究者たちの意図しなかったような、新しい認識を産出し造形する型の探求にもなっていた……ということに着目してきたつもりである。(中略)古典レトリックはみずから意図せずに、人間の無意識の、イメージの論理の方を研究していたのだった、と考えることもできる。』(P215)
 「第5章 誇張法」特定の形式はない、ようするに大げさな表現というだけで日ゆるいとは分類が異質なものだが、古代から近代まで修辞理論に必ずあやの一つとしてあつかわれているため、一章を費やす。例えば、慣用の言葉ではあるが「一日千秋の思い」のような表現のことをいう。
 そして騙して人をたぶらかす類のうそではなく、わざわざばれるようにつくうそのことを言う。
『「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草でも呑のんで御出おいでなせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢だけ落して置くかね」
 親方は垢の溜たまった十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境を巨人の熊手が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫にふくれ上った上、余勢が地磐じばんを通して、骨から脳味噌まで震盪を感じたくらい烈しく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、好い心持でしょう」』という夏目漱石の「草枕」の文章を引用して、『腹は立つけれども、しかし人生にとっての重大事というほどのことではない。その気分を、忠実に記述しようとしてもたぶん、尋常の表現では用がたりないだろう。この床屋め、ぶっ殺してやりたい……と、すこぶる不穏な表現が必要なほどに、たしかにその腹立ちははがしいのだが、他方、これほど取るにたらないできごとも少ないのだ。大きなことばで表現すれば、大人気ないし、小さなことばで表現したのでは、いまいましさが残る。言語の記述能力は(と言うことは残念ながら私たちの記述能力といってもほどんど同じことなのだが)これしきのたあいない事実についても、やはり不じゅうぶんである。』(P234)
 言語は本来嘘をつくためのものではないのに嘘をつき、嘘はばれずについてこそ嘘なのに、嘘をわかるようにつくということは二重の謀反の表現。嘘は言語にとって驚異なものであると同時に言語は本質的に嘘をつけるようになっている。『誇張法は私たちに、言語本質的なうその可能性を思い出させてくれる。それは、信用維持のための私たちの不断の努力をあざわらうという、意地の悪いパロディーによって、その疲れをいやしてくれることがある。誇張法によって、なぜかほっとしたり、胸の使えの消えるのをかんじる場合がある。』(P238)
 「第6章 烈叙法」一つ一つの動作を動作をいちいち、微に入り細を穿つように描くような表現のことを言う。例えば「アリが列を作って目の前を通り過ぎた」と一言で済ますのではなく、「目の前を蟻が一ぴき通った、次に別の一ぴきの蟻が通った、それからまた一匹の蟻がとおった、つづいて」というように、あるいは「手荷物をまとめた」ではなく手荷物をまとめている動作を、どうまとめようかという試行錯誤も含めてこまごまと書いていくような『おびただしい量の意味内容を造形するためにおびただしい量のことばをもちいる』(P258)のが列叙法の基本的な様式。
 また列叙法には、列挙法と漸層法の2つの型がある。
 『《列挙法》とはさまざまな同格のことばを次から次へとならびたてていく表現』(P259)であり、『数多くの内容を語ろうとしてけっきょく冗漫に《おちいってしまう》方法でもある。』(P263)しかし『混乱あるいは繁盛をことばで造形するには、列挙法はうってつけの形式である。』(P263)例えばにぎわう町を、多くの店や繁華街の様子、そこにいる人々の類型を並び立てて表現するようなことをいう。
 漸層法は、英語ではクライマックス、一段一段上っていく(表現が徐々に強調・強化されていく)過程のことをいい。元はそうした意味だったが後世に一般用語の上り詰めた頂点という意味となった。『いわば、最初のはしごの隠喩に、あとになってから通俗的な換喩(過程から結果へ)が加わった』(P272)。漸層法の例として、数え歌などがあげられる。
 クライマックスの『もっとも古典的な定義は、単に漸層法というよりも、《連鎖漸層法》とでも名づけたいような、特殊なものであった。次第に強化されてゆくというだけではなく、もっとはっきりした定型のあやだった。そしてそれについては『しばらくのあいだ善行をおこなうと、それが私たちにとって容易となる。そして、それが容易となると、私たちはそこに喜びを味わうようになる。そして、喜びをあじわうと』(P279)という文章が例としてあげられている。連鎖・尻取り式の表現。
 「第7章 緩叙法」緩叙法は誇張法のおおむね逆に位置するもの。『緩叙法は、「《1》あることがらを積極的に肯定するかわりに、それとは反対のことがらをはっきりとひていする。あるいは、《2》そのことがらを、程度の差はあるにしてもとにかく弱めて表現する。《その目的》、その意図はまさに、緩叙表現がおおいかくしている積極的な肯定にいっそうの力と重みを与えることにある。」(『ことばのあや』第一巻、第二部、第二節)』(P286)誇張法の逆なのは《2》の部分。
 『緩叙法は、存在しない、しかも反対のものごととの想像上の比較検討』(P292)。『「うれしい」と言うとき、人はたんにうれしいのであろう。それに対して、/「かなしくはない」と言う表現は、うれしさのかたわらに、存在しないかなしみの映像を成立させる。』(P308)
 この表現方法には一歩しりぞいて観察する感じを出し、悲惨な現実をユーモアとして描くこともできる。
 慣用表現に転化した緩叙法として「……が少なくない」、「……にほかならない」、「……以外のものではない」などがある。
 対義語の否定としての緩叙法。中原中也の『海にいるのは、/あれは人魚ではないのです。/海にいるのは、/あれは、浪ばかり』という詩を引用して、『じつはこれこそもっとも緩叙法的な緩叙法』(P315)という。なぜなら『人魚は否定されることによって、《そこにいない人魚》として姿をあらわした。』つまり中原中也は『「人魚」と「浪ばかり」を一対の対義語として発見してしまった。』(P316)
 あとがき、執筆前にはさらに様々なレトリックについて章を設けるつもりだったと書いて歩けど、それは読みたかったな。講談社学術文庫の同著者の著作で、それを見られたりするのかなあ。そうならいいけど。そうじゃないなら本書にそれが収められなかったことは無念だ。