スターリングラード

スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)

スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

第二次世界大戦の転換点「スターリングラードの大攻防戦」を描く壮大な戦史ノンフィクション。膨大な資料や個人の手記、書簡、証言などをもとに史実を丹念に読み解き、兵士たちの肉声に触れながら、愚行と冷酷さに彩られた戦いの真の恐怖に迫る。世界23カ国で翻訳されたベストセラーの文庫化。サミュエル・ジョンソン賞ノンフィクション部門、ウルフソン歴史賞、ホーソーンデン賞受賞。


 独ソ戦の、いや第二次世界大戦の大きなターニングポイントとなったスターリングラードをめぐるドイツとソ連の攻防、泥沼の戦いを描く戦史ノンフィクション。
 「卵をめぐる祖父の戦争」を読んだ後(あっちの舞台はレニングラードだが)、独ソ戦争のソ連の民の苦しみなどが書かれたものがちょっと読んでみたかったので、この本にもそうしたものは少なからず書いてあるだろうと思って購入。しかしスターリングラード、都市全壊して、その壊された都市が前線となり戦場となっていたということのようだ。そのためちょっと読みたかったものとは趣が違う本ではあった(まあ、私の無知のせいなのだが)けど、壮絶な戦いぶりと飢餓状態など当時の兵士たちの手紙や日記などを適宜引用しながら当時の戦場の状況を活写しているので、そうした描写は面白かったというと語弊があるが、そうした描写のおかげで関心を持って読み進められた。そうした苛酷な環境を戦う現場の話が印象的だった。
 それから具体的な戦術、戦略の話、どういう経緯でどうなったというものも丁寧に描かれているが、そうしたものにはちょっと興味薄いためいまいち頭に入ってこなかったな(苦笑)。まあ、ヒトラーが権限を振りかざして余計な口を突っ込んだことで適切な方策がとれなかったとか、スターリンがドイツ軍を誘い入れて潰したというのは神話だということは伝わったけど。
 まあ、そうした対極の話にあまり興味を持てなかったから少し長く感じたけど、本書で描かれる局面はドイツがソ連侵攻のために立てたバルバロッサ作戦を開始したが、当初の大目標であったカフカスの石油は取れずにスターリングラードで戦線が膠着する、するとヒトラーはなぜかスターリングラードのほうに執心して泥沼に自らはまり、その後ドイツ第6軍が大敗して、第二次大戦の潮目が変わった重要な局面であり、そうした局面を正確に細やかに描くためにはこうした長さを必要としたのだろう。それにスターリングラードで戦線が膠着した状態で際限なく続く戦闘、飢えに苦しむ壮絶で悲惨な戦場を伝えるためには、こうした長さもまた効果的に作用していると思うし。
 独ソ戦において、5万人以上のソ連市民、元赤軍兵士がドイツ軍に寝返って、ドイツ軍の制服を着てソ連と戦っていた。ドイツ軍は捕虜をほとんど飢えるに任せていたので、そこから無理やり軍務につかされたものもいるが、多くは志願者。そしてヒーヴィ(現地民対独協力者)と呼ばれた彼らは、包囲され飢えに苦しんだ最後の戦闘でも勇敢で忠誠心厚い態度でソ連軍と戦った。
 スターリンは当初ドイツ侵攻の可能性を考えておらず、各所で聞かれるそうした話をイギリスの陰謀だと思っていた。そのためヒトラーを挑発することを恐れていた。
 しかしソ連兵の包囲されたり数の上で勝てない状況でも、勇気や自己犠牲を示したことに、『おそらく集団パニックと言わないまでも、大体が混乱によって生じたのだろう』(P46)という著者のコメントがあるが、個人的にそうした故国を守るために示された勇気をそう切って捨てるのはちょっと違和感。
 ソ連ではドイツ軍の侵攻という祖国の危機的状況にあって、義勇軍に志願し、あるいは志願すべきと思った人々は400万人に及んだ。
 ドイツは当初の快進撃もあってか、あれこれと手を広げすぎたというか、戦力を集中してまず石油なら石油とか目標を一つに絞るべきだったのではないかと思うなあ。まあ、後知恵に過ぎないが。
 開戦3ヶ月たった時点では、ヨーロッパ・ロシア方面のソ連軍の戦闘機は開戦当初の5%に満たなかったということひとつでも、いかに開戦当初はドイツ軍が圧倒的だったかが伝わる。しかし冬が来て、冬季装備をきちんとしていなかった、ロシアの冬を甘く見ていたこともあり、多くの損失が出た。そしてそのためにドイツ軍は、現地人から家や防寒着を徴発して雪の中に放り出して、彼らを飢えと寒さで死ぬにまかすなどという暴挙もしばしば行った。また、ドイツ軍が必要な糧食の供給を認めなかったため、非常に大規模な略奪が行われた。そしてドイツ軍は、共産主義者相手の徴発に良心の呵責を感じなかった。
 しかしそうした徴発だったり、戦線膠着後に出てくる独ソ双方の飢え、そして大勢の負傷者と戦場の不衛生な環境、野戦病院の劣悪な病床や手術の環境などについて当時の細かなエピソードが兵士の日記や手紙から部分引用しながら書かれていくのはいいな。
 そして赤軍兵に対して、降伏しても命の保障をせず、捕虜を面白半分に撃ったり、まともな建物のない場所を収容所として、そこまでの長い道のりを歩かせ、また、そこに生きてたどり着いてもほとんどといっていいほど食事を与えず飢えと寒さで死なせたりしていた。収容所の食事の酷さを表す例として、捕虜となったある兵士の湯の中に浮かんだ僅かなライ麦が最高の食べ物で、死んだ馬の肉が最高のご馳走だったという話があげられる。捕虜にされて、生きて収容所までたどり着いた570万の赤軍兵士のうち300万人が収容所で死亡した。そしてソ連がドイツを押し返した後にそうした捕虜収容所の様子を見たことは、その後捕虜となったドイツ兵への扱いに影響を与えただろう。
 ドイツ軍ライヘル少佐が持っていた計画書が敵の手に渡ったが、スターリンはそれを偽者だと片付けてしまった。しかしドイツではそのライヘル事件のために、巧妙なスターリンの罠という考えが浸透した。
 ヒトラーはあれこれと戦略に余計な口出しをして、本来の計画を改悪して、一層敗北に近づけていく。
 ソ連では、退却を許可した指揮官が階級章を剥奪され懲罰中隊(一般囚人などで構成)に入れられて、攻撃中の地雷撤去などの半ば自殺的な行為をさせられるなど退却するなど苛烈な処分を与える。また、村が爆撃されたので逃げた人が職場を放棄したとして6ヶ月の強制収容所送りとなり、逆にドイツ軍が迫ってきたのに家を離れることを拒否した女性に対して10年の強制収容所送りの判決が出されたりと、緊急事態なのに(だからこそか?)かなり軽く多くの人を罰している。
 スターリンはドイツ軍の迅速な進軍の最中、軍司令官を猫の目のように変え続けた。そしてソ連軍も補給が乏しく弾丸は敵の弾薬などを得るために攻撃を仕掛けることさえあって、食料について同様に乏しくあたりの畠から小麦を盗んでそれを食べた。
 ヒトラーは当初カフカス地方奪取に失敗したときには戦争を終わらせなければならないと言っていたが、それでも実際それが失敗するとスターリングラードの軍需工場は壊滅下も同然であるのに、スターリングラードという都市を占領するのに拘泥する。そしてスターリンはその都市を死守することを求めたため、この都市を舞台に都市を廃墟にしながら、都市内での戦闘が繰り広げられることになる。
 スターリングラードの中央駅が、合計15回も敵味方で奪取が繰り返されたということからや、ヴォルガ河畔にある大きなレンガ造りの倉庫を双方奪おうとして『ドイツ兵が最上階にいて、その下にロシア兵、さらにその下にはドイツ兵と、まるで「段重ねのケーキ」の観を呈することもあった』ということからも、戦いがいかに泥沼の激戦であり、混沌とした状況であったかが伺えよう。
 また双方、壊された建築物から巻き上がる埃で軍服に灰褐色がしみこんでいたため、敵か味方か定かでない場合も多かった。そして都市内での戦闘ということで、接近戦も多く生じた。そしてドイツ兵はそうした『壊れた建物や掩蔽壕、地下室や下水道での接近戦をすぐさま「鼠たちの戦争(ラッテンクリーク)」と命名した。』(P209)
 砦となった建物で孤立させられたソ連兵たちは8月の砲撃で給水場が破壊されてから新鮮な水がなくなっていたため、兵士たちは数滴でも新鮮な水は出ないかと配水管を壊していた。
 配給のウォッカでは量が足りなかったため、兵士たちは外科用のアルコールを飲み、あるいは工業用のアルコールなど本来飲めないものを、ガスマスクの活性炭フィルターでこして飲んでいた。こうした飲めないものまで、失明の危険を冒してまで飲むというのはうーん理解できない。
 スターリングラードソ連野戦病院、衛生隊員は彼らの血液の提供がなければ兵士が死ぬという状況であったため、輸血のために自らの血液を度々(時には一晩で二回も)提供したため、始終倒れたというのは壮絶。
 ソ連軍、全く訓練しないままに誰でもよいからと言う具合に数を揃えたので、そういう人たちの脱走は当然多かった。飢えのために脱走してドイツに寝返ることもしばしば。
 そうした戦場となり、廃墟となったスターリングラード疎開ができずに閉じ込められた市民がいて、補給もなかったのに、何ヶ月ものこの都市を舞台とした戦闘が終わった時に子供1000人含む1万人もいたというのは、たしかに『スターリングラード物語のなかでも最も驚くべき一章』(P241)だ。
 ドイツ兵は水筒に水を入れることはソ連の狙撃兵が待ち構えているので危険であるため、そうした子供たちを利用し、パンと引き換えに水を汲ませた。しかしそれに気づいた赤軍兵士は子供たちを射殺する。
 『「ドイツ軍に所属するロシア兵は三つのカテゴリに分けられる。一つはドイツ軍部隊によって動員された、いわゆるコサックに分類される兵士で、ドイツ軍師団に配属される。第二は志願した地元住民またはロシア囚人からなるヒーヴィや、脱走してドイツ軍に加わった赤軍兵士だ。このカテゴリの兵卒は階級が与えられ階級章もつけたドイツ軍の軍服を着用する。彼らはドイツ兵と同じものを食べ、ドイツ軍連隊に配属される。第三カテゴリはキッチンや厩舎などで雑用するロシア兵捕虜だ。待遇はさまざまで、むろん志願者は厚遇される。一般の兵卒は僕らによくしてくれるが、最悪なのはオーストリア指弾の将校と下士官だ」。これは捕虜になったヒーヴィがNKVDの尋問間に語った話である。』(P255)ひとくちにヒーヴィといっても様々。
 ビラを信じて脱走するもドイツ軍服着せられて、訓練付けられ戦わされる。それでもソ連軍に戻れば反逆者の扱いとなり、戦うことを拒めばドイツ軍に殺されるという身の上となったウクライナ人の挿話がで書かれていることからもわかるように、ヒーヴィといっても必ずしも好んでソ連相手に戦っているという人ばかりではなかったようだ。 
 『スターリンには恥という観念がなかったので、その点ヒトラーより大いに有利だった』(P303)というのは辛らつだが、スターリンヒトラーと異なり作戦の失敗を認めることができ、別の作戦に変更することができた。
 ドイツはまだ女性を動員していない段階であったが、ソ連は女性も動員して工場を動かしていた。そうしたこともあってソ連は主要工業地帯を奪われても、1942年にはドイツを超える生産力を持つようになっていた。
 プロイセンには自分の頭で考えない指揮官など許しがたい存在であるという価値観があったが、ヒトラーはそうした自主性を潰そうとした。本来野戦司令官であるというより参謀将校であったパウルスもヒトラーに同意した。
 そうしたことがソ連軍による大規模な反抗作戦ウラノス作戦が開始されたときに、ドイツ軍が効果的な防衛をすること大きく妨げた。
 その作戦でソ連軍は一気にドイツ軍を押し返して、結局包囲することになるのだが、そうして事前に作戦立てていたが補給物資不足しており、スターリングラードミナミの赤軍の攻撃舞台は攻撃開始2日目にはいくつもの師団で食料がなくなった。そのため第64軍の全ての車両は緊急用も含めて糧食供給用に切り替えられた。
 その作戦でドイツ軍を一気に押し込んでいったためソ連の攻撃部隊は熱狂し、病院に居て先頭に加われなかったものはそのことを悔しがった。
 しかし食料がなく飢え死にしかけていた北部側面のソ連軍が、敵方の補給所を占領して、得た食糧を食べ過ぎて150人死んだというのは何ともいえないエピソードだこと。
 ドイツ軍は司令官のパウルスは、予想もしていないソ連軍の大反攻であるにもかかわらず『作戦が適切に準備され補給を受け、しかも上層部の承認を得た作戦計画の一端でないかぎり、彼は強行突破に賛成できなかった。』(P361)そのため完全な包囲をされる前に強行突破するせっかくの機会をみすみす逃す。そして包囲を固められた12月には突破作戦の成功は現実的には不可能になる。
 包囲されても第六軍の兵士たちは、ヒトラーの救援群を送るという約束に希望を持っていたし、『反ナチの将校たちでさえ、ヒトラーが第六軍を見捨てるとは考えもしなかった。』(P390)
 そうして包囲されて食糧も乏しくなっている状況下でのドイツ軍のクリスマス。専有たちは家族のように祝いあい、本当に食べるものが少なく飢えている中でパンをプレゼントした兵士たちもいた。『最後のたばこと、便箋、パンをプレゼントとして部下に配った中尉もいた。「僕には何もなくなってしまいましたが、それでも今年のクリスマスはこれまでで一番美しいクリスマスの一つでした。僕は忘れないでしょう」』(P418)こういう極限状態であらわされる美しい行為の話を読むのはいつだっていいものだし、そういう話には個人的にすごく惹かれるものがある。
 そんな彼らを、救援を信じていた彼らをヒトラーは見捨て、彼らの英雄的行為、英雄的死を望むようになる。
 年が明けて1943年1月、ヒーヴィは大勢が餓死しかけて、実際に餓死者もでている。しかも彼らドイツ軍人と同じ食糧が与えられていたというのだから、ドイツ兵も同じように餓死寸前のものが多く、餓死者も出ていたことは想像に難くない。
 1月10日より、ソ連は包囲したドイツ軍への大攻勢を始めたが、ソ連の戦いに拙劣さがあったとはいえ、包囲されたドイツ軍は肉体的にも装備・弾薬などの物質的にひどい状況にもかかわらず、ソ連軍に対して最初の3日間大きな損害を与えた。例えば、ドン方面軍は2万6000の兵と線車体の半数以上を失った。
 戦闘の最終段階でヒトラーは第六軍へのさらなる援助を与える決断をしたが、それはいまさら手遅れ、焼け石に水となることがわかっているので、手を尽くしたといいたいがためのパフォーマンス。
 そして1月半ば退却の段階にいたって、ついにドイツの将校・兵士の、援軍がきてくれるという希望は潰えた、根こそぎに。そして司令官のパウルスも意気阻喪し『心身ともに崩壊状態』(P512)となる。
 ヒトラーはもはや人命救助を問題とせず、多くの勲章を授与したり、第六軍の指揮官たちを昇進をさせて、彼らが英雄的に死ぬこと、そして、それによってスターリングラード神話が作られることを欲した。
 パウルスは無気力状態で部下に連れられて降服したものの、部下に降服せよと命令を出せとのソ連側の要求はかたくなに拒否する。それはヒトラーに対する義理というか、そのために譲れない一線だったのだろう。しかし彼の降服を知ったヒトラーパウルスが自害しなかったことを怒り狂う。
 『スターリングラードの戦いを通じて、赤軍派一一〇万の死傷者を出し、そのうち四八万五七五一名が戦死した。』(P532)一方でドイツ側も『総計すると枢軸国は五〇万余の兵を失ったはずである。』(P537)
 ドイツの侵攻でロシア人がスターリニズムを守らざるを得なくなったように、スターリングラードでの敗戦後『今度は敗北の脅威によって、ドイツ人がヒトラー政権とその凄惨な失敗を守らざるを得なくなっていた。』(P542)
 スターリングラードでの戦勝以後、スターリンがドイツが露骨に侵攻の準備していることを見過ごしたことから独ソ戦は始まったのだが、『一九四一年の惨禍はあたかもスターリンが全て考案した巧妙な計画の一部であるかに粉飾された。』(P545)戦勝をスターリンの功績にした。スターリンの陰謀というのもこっからきてんのでは、ドイツ云々というよりも第一には。
 そしてスターリングらーで出の戦勝は世界中の共産主義者に刺激を与える。
 捕虜となったドイツ兵、因果応報的にソ連から過酷な扱いを受ける。
 しかしソ連に寝返ったドイツ兵がどんなロシア人よりも、捕虜となったドイツ兵に対して厳しく残酷だったというのは、日本のシベリア抑留でもそんな話を聞いたことがあるし、そうしたのは人の常なのかな。まあ、ある意味踏み絵みたいなもので、そうすることでソ連兵に自分の立場を示す必要があるという理由はわかるのだが、だからといってその裏切りの悪徳がなくなるというわけではない。
 そして1943年の春に収容所の状況が改善されてきても『大半の収容所病院での死亡率は一日最低一パーセントだった。』(P566)その収容所の中で、即席に『虱の消化管抽出物を注射してチフスを予防するワクチンも製造された。』(P567)というのはすごいというか、そんなことができるのか。