クアトロ・ラガッツィ 上

内容(「BOOK」データベースより)

十六世紀の大航海時代キリスト教の世界布教にともない、宣教師が日本にもやってきた。開明的なイエズス会士ヴァリニャーノは、西欧とは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画をもちかける。後世に名高い「天正少年使節」の四少年(クアトロ・ラガッツィ)である。戦国末期の日本と帝国化する世界との邂逅を東西の史料を駆使し詳細に描く、大佛次郎賞受賞の傑作。

 歴史。キリスト教イエズス会の宣教師たちの姿を中心に据えながら、戦国日本の宣教事情や国内事情を扱い、そしてイエズス会の本拠であるスペイン・ポルトガルの当時のの事情についても見ていく。当時の外国の史料や、現代の外国の歴史家の説も用いながら、さまざまな説に触れて検討している。キリスト教を持ち上げすぎても、批判的過ぎてもない、そんな偏り少ない感じなのはいいな。著者が西洋絵画の学者であるが、キリスト教徒ではないという立場がそうした公正な視点で、キリスト教礼賛にもキリスト教を悪玉にもせずに、こうした題材を扱えているのだろうな。そのおかげで、長めの本であるがストレスなく読み進められている。
 著者は西洋美術史家で歴史家ではないけど、日本のキリスト教大名たちのあれこれといった日本国内のことも、歴史の本や資料や論文をちゃんと調べて書いていることが伝わってくるからいいよね。というか戦国時代の本で、読みやすくて、内容的にもちゃんとしていて物語的に読めて、話のスケールが小さすぎない、文庫とか新書で読めるものって案外貴重だから、そうした意味でもうれしい。そういうのを書くような人は、小説とかに行っちゃうのかなあ。
 こうした戦国時代の日本でのキリスト教の話がまとめて物語で読めて全体像がつかめるのはいいね。少年使節は、日本キリスト教会の絶頂ということでメインにすえてあるけど、あくまでも戦国日本でのキリスト教の話って感じ。しかしやはり小さなテーマでなく、大きなテーマを扱っていて読みやすく物語的に読める、現代の歴史学的成果を取り込んでいる(この本に関しては、著者は外国のそうしたものも読んでいる)、きちんとした歴史の本というのは面白い。
 1章では、ルイス・アルメイダというラテン語ができ、ちゃんとした医者の資格を持っていた元商人だったが、日本で宣教者となった人を中心に見る。彼は30歳ころより日本に定住して、熱心なキリスト者として宣教活動に励み、私財を寄進しながら28年間日本で暮らし没した。
 『あとで日本のキリスト教会の大問題になることだが、日本布教は最初から祝亜とも言えるような財政難に苦しんで』(P37)いた。『とにかく、日本にいる宣教師たちと商売との結びつきは、大名を吸引するためもあったが、なによりも金のためだった。』(P81)信者が増えるほど神父が増えるほど、深刻な財政難に陥る。商売と関係していることを、欧州の王も教皇庁もひなんしたが、代わりの財を提供してくれることもなく、日本教会を維持するためには商売で金を稼ぐことが必要だった。
 征服・殖民の考えは当時ポルトガル国王になかった。『きな臭いにおいがしてくるのは征服者の心性をもったスペイン王国ポルトガルを併合し、秀吉がアジア征服の野望を持ちはじめてからのことだった。これは、双方とも征服者(コンキスタドーレス)であったためだ。』(P80)
 イエズス会が行っていた病院などの慈善事業、大名や武士といった上流層がより付かなくなるため、1583年には自らの手で歯止めをかけた。
 イエズス会キリスト教広めるため、日本の風習になじもうと日本の流儀で立派な服装を着るようになるが、後から着たフランシスコ会士、修道会を作った聖フランチェスコの着ていたのと同じ毛布のように粗い服を変えなかった。異国で布教する際に、どの程度自分たちの流儀にあわせるか、押し付けるか。
 ある禅宗の住職が、宣教師の話を長く聞いて、今後は寺に来る人に初めは禅宗の修行をしてその後にキリスト教の教えを授けたいといったというエピソードがあるように、当時の人はキリスト教と仏教が相容れないと思わない人も多かったのではないかという指摘されているが、議論好きで博学だったその坊さんがそんなこといっているのだから、その可能性も高そうだ。
 また、ザビエルも日本の知識人であった僧侶の知識欲を愛して、日本人の優秀さを示そう(つまり布教しがいのある土地であることを)と、ポルトガルに送ろうとしたように、一面では互いを認めていたというこかな。いや、金持ち喧嘩せずじゃないが、知的エリート同士はたとえ異なる宗教であっても互いにわかりあうということのほうが正しいかな。
 ザビエルは好戦的なスペイン人が日本との貿易利益を求めて押し寄せて、イエズス会の布教の基礎が破壊されることを恐れて、日本の強さを強調。ヴァリニャーノも同様な強調をしている。そうした点でもヴァリニャーノはザビエルの布教方針の後継者だった。
 しかし全員がそうした考えだったわけでなく、軍隊を送って征服してしまえといった征服論者な宣教師たちも居る。つまり宣教師誰もが、そうしたことを考えなかったというわけではないということ。まあ、秀吉・家康の恐れ、全く故なきものだというわけでもないということかな?
 あやうく教会が攻撃されそうになったときに、教会で死ぬために急いだ人々がいたが、その人々の行動を殉教への憧れとフロイスは解釈している。しかし、それを持った人もあったかもしれないが、『そここそ名誉ある死に場所だ、戦場にいおくれをとるまいと行く人々のように、彼らは教会に向かった』(P122)という著者の、当時の気風にその行動をした要因を見出すほうがよっぽど説得力があって、そういう説明なら不思議など首をかしげずに、なるほどと思える。
 キリスト教では主君への忠誠は美徳。それゆえ、後の秀吉・家康の時代になって宗教との二者択一に迫られるまで両者は矛盾するものではなかった。
 宣教師が切腹介錯、敵対象の首狩りを野蛮人と報告している一方で、秀吉はキリスト教徒が喜んで殉教するのは右京の道徳に反して駄目といっている。『結局なんのために死ぬか、なんのために命をかけるか、それがたがいにちがっていたにすぎない。』(P125)。
 そして江戸時代に殉死者が多く出て、それが武士階級に多かった理由を、主君でなく、キリスト教の神に武士道で殉死したとする説があるようだ。つまりもともとの道徳、美意識で殉じるものが変わっただけという。改宗したキリスト教への熱とともに、もともとの性質があわさってあんなに殉死者がでたということね。ただ単にキリスト教への熱烈な感情というのでは、納得しかねたがそれで納得。もともとあった仏教ではそこまで苛烈に二者択一を迫られなかったから殉死者でなかったから、キリスト教徒の熱烈さが目立つというか。まあ、一向宗の人々も戦ったから心根的にはそれと変わらないのだろうけど、殉死ではないから後世的にいまいちインパクトが薄いというか。キリスト教の教義である死後に天国というのも、生きていることが苦である多くの人々に殉教を選ばせることになった理由だろうが。
 ヴァリニャーノが来るまでの十数年、日本のイエズス会教会のトップだった布教長カブラル。彼の方針の誤り『それは自分が日本人の心や習慣に合わせるのではなく、自分の心や習慣に日本人を合わせようとしたことである。これはキリスト教が全世界の異なった文明とまじわるときに犯した大きなあやまりのひとつだった。(中略)カブラルの手法や、その人間性がにわかに問題化するのは、ヴァリニャーノ巡察師が彼の十年にわたる布教を点検したときである。彼はその失敗を問われて日本を去った。』(P135-6)
 ヴァリニャーノ、中国と日本では現地に順応し、例えば中国での先祖崇拝の儀礼を守ることや神については「天」を考慮することなどを決めた。ヴァリニャーノ、リッチ、ルッジェーリ、オルガンティーノはイタリア人で、人文主義的教養あり、現地の文化や言語を知ることに熱心で、土地土地にあわせてある程度柔軟性がある。一方、スペインやポルトガル出身の宣教師は、非妥協的かつ好戦的。
 そうした現地にあわせる対応をとったイエズス会に、フランシスコ会は厳しい批判。そして両者は日本でことごとく衝突し、それが大事を引き起こす。
 ヴァリニャーノは日本を異教だが文明国と見なし、布教方針を一大転換する。そうした『征服者的ではない、文化教養人的なヴァリニャーノが巡察師に任命されたのには、イタリアとスペイン、あるいはカトリック教会とスペイン・ポルトガル国家とのあいだの政治的な対立が関係していたということである。つまり、イエズス会の総会長は、布教があまりにも王国本意に傾き、宣教師の国籍もあまりにもポルトガル・スペインに傾きすぎることを抑制したいと思った。(中略)だから、イエズス会が慣例を破ってイタリア人をアジアへの巡察師に任命した』(P180)。王権からは無縁で居られないが、バランスがとれたものにするための人事。ヴァリニャーノは日本布教を成功させるために、他の会の宣教師が日本や中国に来ないように、イエズス会士でも他の攻撃的で西洋文化・習慣への「同化」を強制する宣教方法をとっている地域の宣教師は来ないようにしてくれと総会長に願う。
 高い立場から一方的に押し付けては本当の教育はできないなどと感じ、『ヴァリニャーノは、日本人の独自性を保ったままで築かれる道の「非ヨーロッパ的なキリスト教文化の出現」を願った』(P187)。そして『西洋人とは異なった思考法や慣習、そして文化の型を尊重して、それを破壊することなく、しかもそのなかでキリスト教精神を育てよう』(P187)とした。今では教会は、そうした「順応策」を世界各地でとっているが、『これをもっとも具体的なかたちで実施したのは、このヴァリニャーノが最初であり、しかも、それがもっとも成功したのが(一時的だったが)日本だったといわれている。これは布教史家がみな認めていることである。ヴァリニャーノの本質的な新しさ、それはふたつの文明の混合ではなく、融合にあった。つまり日本は西洋化されるのではなく、旧い日本に固執するのでもなく、両文化の結果として、未知のまったく新しい日本文化を作るのだとおいう考えである。』(P188)
 ヴァリニャーノに任を解かれた日本布教長カブラルは『キリスト教とヨーロッパを何よりも優れていると信じて、それを未開の土地に教えるという義務感(崇高な)でやってきたということだ。自分より根本的に、「人種的に」劣っていると思っているところへ恩恵をほどこすのだから、相手のことを知る必要はない。上から与えればそれですむ。その精神的姿勢がすべての根底だった。』(P208)そのため信者の話を聞くために言葉を覚える気もなかった。
 こうした日本のイエズス会の内部はカブラル派とヴァリニャーノ派の二つの派閥にわかれていて、日本・中国は現地の文化にあわせた布教方針をとっていたヴァリニャーノら、イタリア人中心の人文主義のグループと、恩恵を施すように上から教えを与える意識で非ヨーロッパ人を見下していた傲岸なカブラルらポルトガル・スペイン人中心のグループがあったというのは知らなかった。
 そしてカブラルのそうした『自分が永久に相手の上にあり続けるために、日本人が自分の上に出ることを許さないという態度は、やがてイエズス会から多くの棄教者、背教者を出すことになった。』(P229)そして自業自得で任を解かれた後も日本人とヴァリニャーノの悪口をあちこちに上司に送る訴える陰険さ。
 そうしたカブラルの日本人を司祭にしない方針や、差別的で奴隷的な取り扱われ方をされたことで熱心なキリスト教徒で『日本人によるもっともすぐれたキリスト教布教書『妙貞問答』を書いた』(P230)不干斎ハビアンが棄教することになり、そして彼の反キリスト教論が日本のキリシタン迫害に理論的な支柱を与えた。
 しかしヴァリニャーノの方針、僧侶と共存共栄で僧侶と同じような日本で安定した支持が得られればよいと思っていた。もちろん『断じて仏教とは仏教などとは共存できないという神父もすくなからずいたわけで、ヴァリニャーノの考えは当時は少数派だった。』(P248)ヴァリニャーノのそうしたやり方ならば日本に根付いても別によかったのにとか思う。
 カブラルは日本人に神父になるためなどの教育を授けることを反対していたが、ヴァリニャーノが日本に着てから組織的教育施設を整備することが現実化。
 イエズス会、原則的には地代で定収入を得るのは禁じられていて、基本的には信者の寄進で運営される托鉢修道会とは知らなかった。コレジオ(学校)のためであるならば認められているようだが。
 しかしヴァリニャーノの布教方針になってから、日本の大名らと付き合うための費用や、日本の信者から立派に見えるような衣服代、そして教会も神父も増えて、教育施設も作ったので日本の教会の財政状況悪化で、金欠に。そしてそれもあってカブラルやコエリョフロイスポルトガルの3人は、ヴァリニャーノがその費用を賄うために商売に手を出していることを批判。
 しかし商売手をつけたのは、文化・教育的施設を作ったためであり、それは彼が日本人を
優秀で有望だと認めたからこそ作ったのであって、カブラルらのように傲慢で日本人を徹底的に下におこうとしていた人とどちらがいいといわれれば、いわずもがな。それを思うと、その一事で万事を批判するのはちょっとなと思う。
 日本教会、迫害なくとも経済的に破綻していた。そうした状況でヴァリニャーノは、教皇に日本人の資質を見てもらい、援助を引き出そうとして、教皇使節を送ることを決心する。その他にもヨーロッパ人に日本の優秀さをわからせると共に、狭い世界で遠い世界に文明があると信じられない日本人にもヨーロッパが優れていることをわからせたいという二つの思いがあった。
 荒木村重が反旗を翻したときに、その部下だった高山父子を裏切らせるために織田信長は神父を殺すと脅迫して、なんとか敵対やめさせる。そのときのオルガンティーノへの恩義で信長はキリスト教会を優遇することになる。
 ヴァリニャーノ、インド・アジアで布教するイエズス会のすべてを統括する権限を持ち、そして『騎士として養育されたため、風姿は後期で美しく、武人のたしなみがあり、やや冷たく気取ったところがあり、他人の欠点を容赦せず、激しい性格(これは信長にそっくりである)であるが、高度に礼儀正しい。なににもまして、日本の礼節や文化に深い尊敬をもっている。』(P405)それまで日本にやってきた宣教師たちと一線を画す人物。
 カブラルを更迭した後、その後任に、財政問題がシビアだということと同国人をひいきしたといわれないためオルガンティーノではなく、コエリョを置いたがそれは大失敗だった。『誓って言うが、もしオルガンティーノが布教の長になっていたらキリシタンの歴史は非常にちがうものになっていただろう。』(P472-3)
 日本で宣教師をしていたラモン、『日本人は支配または教化、同化すべき』(P496)という考えだったから、少年使節を王侯や教皇が大歓迎したことを愉快に思わず、派遣されたのh高貴な家柄の少年ではなく、卑賤な家柄のものたちだと誣告して、それに対してヴァリニャーノは反論せざるを得なくなる。
 本来使節はヴァリニャーノ自身が後見人になって、質素な遠方のキリスト教徒による一使節で済ませるはずが、その途上でヴァリニャーノ本人はインドの管区長に任命されなくなく同行を止める。そしてむやみに歓迎され、あちらこちらに顔を出す、多くの社交をこなさなければならないことになった。それがラモンの批判を呼び、その批判が現代の日本の歴史家に、この使節を悪い行いだと攻撃される種となった。