クアトロ・ラガッツィ 下

内容(「BOOK」データベースより)

四人の少年は、二年の歳月を経てヨーロッパへ到着する。ラテン語を話す東洋の聡明な若者たちはスペイン、イタリア各地で歓待され、教皇グレゴリオ十三世との謁見を果たす。しかし、栄光と共に帰国した彼らを待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曾有の迫害であった。巨大な歴史の波に翻弄されながら鮮烈に生きる少年たちを通して、日本のあるべき姿が見えてくる。第31回大佛次郎賞受賞。

 ヴァリニャーノは日本の教会から派遣された少年たちの使節団に対して大げさな歓迎は望まなかった(あくまで資金調達のためと、日本人に欧州を知らせて、欧州に日本を知らせる。そして神父候補の彼らが本場でキリスト教文化全般を学ぶことを目的としていた)が、ヨーロッパでは王子と喧伝されて大歓迎された。そのせいでヴァリニャーノが王子といったわけでもないのに、王子じゃないとか、それどころか高貴の出ですらないという変な批判を受けて、彼は後に弁解しなければならなくなった。
 そうした使節への歓待には、プロテスタントの出現によってヨーロッパでカトリックの範囲が狭まっている中で、遠い国の異教徒の改宗に対する教会の栄光をアピールする意図があった。例えば、そうしたアピールのため謁見時に東方の三王という聖書の神話を再現することで、カトリック教会の世界の中心性、教会の支配権の拡大を示す広告塔にする。
 東方の三王を模す演出をしたため、唯一身分が定かでないジュリアンは病気ということにされ、教皇への謁見式に出れなかった。もっとも、その前に直接教皇と会えたようだが。しかしその彼が、4人のうちで最も壮絶に信仰を守って殉教することになる。
 使節がローマに着てから18日後、謁見後に教皇が逝去。そして次代の教皇は最有力とみなされていた文化人ファルネーゼではなく、庭師を父に持つ庶民出身のモンタルト枢機卿が選ばれて、シスト五世となる。グレゴリオ教皇イエズス会の強力な支援者だったが、シスト五世はライバルのフランシスコ会士で、イエズス会を執拗に敵視した。
 シスト五世も日本の使節、東方の三王のイメージを自身の即位式の時に用いたため、使節はそのときかなりいい役貰ったようだ。その時に毎年6000クルザドスを他の資金獲得手段ができるまで支給するという約束を得る。それで使節本来の目的は果たせた。しかし『もしそれが継続したのであれば。』(P88)とあるので継続して支給されなかったみたいだ。
 戦国時代が終焉して後、『他人を征服するか、または征服されるかと言う関係しかもつことのできないひとりの男、秀吉によって支配され、ついで、自分と自分の子孫の永久の世襲権力維持のために、世界に対してすべてを閉じ、すべてを固定させ、すべての国民を世界に対して盲目にさせて、巨大権力機構の一元的支配をつくりあげた恐るべき徳川に支配された。』(P106-7)とあるのは、それによって圧殺されたキリシタンの物語を綴っているのだから点が辛くなるのもしかたないにしても、そうした言いようはちょっと違和感があるな。まったくの別の宗教が外から来たときに、当時の他の国々だとてそれを許容したかは疑わしいので、現代的なものさしで断罪するようにそうした言葉を投げかけるのはどうかと思う。
 まあ、日本のキリシタンに対するやり方が過激で徹底的すぎたのは確かだとは思うし、ヴァリニャーノやオルガンティーノがしようとした日本という地域に根ざしたたキリスト教というのは、布教がかなり成功していたこととあわせてIFの可能性として魅力的だから、それを惜しむ気持ち、もう少し折り合いをつけられたんじゃないかと思う気持ちが生まれるのはわかるけどね。
 秀吉の九州平定前、キリシタン大名大友を救うためにコエリョ(日本の教会の副管区長)は九州平定にあたってキリシタン大名を秀吉側につかせることを言明した。更に秀吉が中国に行くことということを言った際に、ポルトガル人から2席の大型船を世話しようといった。宣教師が戦争の問題に介入することを嫌っていた秀吉に、そうした教会が戦争に介入できる力を持ち、そうした気もあるという姿勢を見せたことで秀吉の猜疑心は深まった。コエリョはそうした協力姿勢を見せることで、教会によくしてくれるだろうと単純に思っていたが、戦国大名の猜疑心を良くわかっていたオルガンティーノはその話を知って激怒することになる。そしてその軽率な答えが秀吉に教会への強い疑いを持たせたが、秀吉は表面的には彼らを歓待したため、実情を知るキリシタン大名やパードレがよくない答えだったと忠告したが、コエリョフロイスはその対面で秀吉の好意を得たと思っていた。
 日本や中国でも、武力でもって征服してカトリック宣教を宣布すべきという主張も宣教師の一部に根強くあったが、前巻の感想でも書いたがヴァリニャーノやオルガンティーノは、中国や日本では全く違ったその地の風土を考慮したキリスト教を築こうとしていた。
 コエリョは秀吉が博多に滞在している時に、提督のような風情で堂々と博多の防衛にも使ったことがあるフスタ船で博多に入る。その船を見て、内部を見学した秀吉は「これは軍艦である」といった。そうしたものを教会が持っていることを秀吉に知られたことで、災厄が及ぶだろうとその危うさを感じ取ったキリシタン大名は、コエリョにこの船は秀吉のために作らせのだといって献上するようにいうが、彼はそれを承知しなかった。コエリョは即座に自ら博多に行って協力姿勢を見せたのだから、さらなる愛顧が得られるだろうと思っていた。その楽観と、軽率な行動がこの後の迫害に繋がった。
 フロイスは秀吉が欲しいといったと書いているが、ヴァリニャーノが書くところではそうなっている。フロイスコエリョの同志で都合の悪いことは筆を曲げるから、恐らくヴァリニャーノのほうが真実に近いのだろうな。
 人身売買をポルトガル商人がやっていたことは事実であるが、教会がそれに責任を取れる立場にあったかというとそうではない。止めようと思っても、利益が伴うものだから宣教師の言葉だけで止めることは難しい。まあ、キリシタン除去の方針があって、それに追放の理由の一つに、南蛮人によるわかりやすい悪行の例としてそれをあげたというわけか。
 フロイスは関白のバテレンの迫害にあたって、友人の日本人たちや大名たちが彼らを非難攻撃したことについて書いているが、それは当然本人の書いているものには書いていないが、さんざん軽率な言動・振る舞いについて忠告していたのに、それを聞かなかった。また迫害の原因の一端がコエリョフロイスなどにあると受け取っていたから、そうした冷たい扱いを受けた。要するに、それまでの行いの結果。
 ヴァリニャーノによると、コエリョフロイスたちはキリシタン禁令の後『秀吉に軍事力で対抗し、報復しようと画策していた』(P248)。キリシタン大名に金・武器、弾薬を提供して援助することを約束して、軍需品を準備して、領主たちに関白への敵対宣言させようとした。有馬や小西はそんな策動をするコエリョを嫌悪し、またそうした動きが日本のキリスト教界の破滅につながることがわかっていたので、そのことを闇に葬った。それが失敗に終わった後にコエリョは、スペイン兵を日本各地に送り神父たちが各地に洋裁を気づいて実力でキリシタンの土地を獲得しようという妄想に入り、フィリピン総督、司教、神父らに書簡を送ったがそれは一笑に付された。ヴァリニャーノは、こうした事実が秀吉の耳に入ったら日本のキリスト教界の本格的な破滅となっていただろうとしている。
 しかし禁令が出てから、スペインの軍隊派遣を願うことに反対したのが7人中オルガンティーノ1人きりかい。
 まあ、そうした征服者気質がポルトガル・スペイン出身の神父たちにふんだんにあったことは事実だが、実際にポルトガルが日本に軍を派遣してバチバチやれるほどの軍事力があったかというと、国家財政が破綻していてそんな余裕がなく、そうではないので、当然そうした要請は却下される。しかし日本に資源がなく財政的に引き合わないといっているが、資源がないのは当時銀が多く取れたからそれには、ん? と思うが、そんなに温暖で地力の高い土地でもないし、戦国日本の武力的にそれを制圧する費用を考えれば財政的に引き合わないのは、それはそうだろう。
 『武力には武力を、権力には権力を。異なった宗教は壊滅させ、排撃するべきだ。その点で、フロイスは秀吉と変わらない。強硬に主張する多数派に対抗して、イエズス会の上長への絶対服従という大原則にさからって、ひとり異なった意見を主張したオルガンティーノは、懸命で慎重だったというわけでも、また、なにかいい対策があるというわけでもなかった。彼にとっては布教は権力からも、国家からもはなれていた。それは彼の長い布教の実績が証明しているように、日常の信者への奉仕だった。暴君はにくいが、武力をもって信仰が伝えられるものではないと思っていた。たとえ協会と言う建物を失っても、それでも説教はできる。たとえ自分の身が殺されても、人を殺したりはしない。
 彼と同じ考えの多くの神父が貧しい放浪の身になって各地に身を隠し、やがて殺されていった。宣教師たちの信仰と献身の「試み」はまさにこのときから始まったのである。』(P256)
 マニラではイエズス会の追放で彼らが失敗したとだけ思い、他のフランシスコ会ドミニコ会が行くことができればいいという情勢判断を誤った希望があった。『ほんとうの悲劇はここから芽生えた。』(P260)
 マニラからの使節団に随行したスペイン人船長が、ポルトガル人とイエズス会のことを悪く言ったため長崎に残っていた教会が破壊された。そのようなスペインとポルトガルイエズス会フランシスコ会の愚かな抗争が徹底的な破滅へと導くことになった。
 使節として来たフランシスコ会のバチウスタ師が説教や集会をしてはならないといわれていたのに平然と無視して、秀吉のお膝元で教会を立て説教をした。そしてさらに地所を貰い、教会を建てて布教していると書き送ったため、他の修道会の神父を刺激し、フランシスコ会の神父が増加して、病院や修院も建ててその活動は公然となった。また、イエズス会の信徒のキリスト教徒の堺の商人に寄進しないと地獄落ちだと威嚇して教会を建てるために多額の寄進をさせていた。
 そうしたおおっぴらな活動に、キリシタンなどが散々警告して止めるようにいっていたが聞く耳を持たず、そのまま続けた。そうした権力(秀吉)にとって挑戦的に見える行動をとっていたので、秀吉のルソン・スペインへの心象悪くなる。そんな折に発生したサン・フェリペ号事件をきっかけに迫害はじまる。
 サン・フェリペ号事件、多額の財貨を積んだ船が土佐に漂着した。そこで侵略と布教の一体性を船員が語り、二十六聖人殉教につながった。
 まあ、サン・フェリペ号の財貨を得たいという意図があったようだから、そのとっかかりになる言動を引き出そうとしていたのかもしれないが、同時にスペイン人に布教と侵略についてそうした観念がなかったとは決していえない。そのため、その言葉が本当にあったかどうかは闇の中。
 秀吉とロドリゲスとの会話、悪いのは度を越した信仰心で過信を無理に回収させたり自社を破壊する諸侯(右近のこと)で、信仰は自由であって良く、下々がキリシタンになるのは別段かまわないといった。天正十五年の秀吉の朱印状第五条にもそのようなことがあるので、おそらくそれは本心。案外まともだな、そうなると秀吉の疑い深さ、警戒心の強さもあるけど、やっぱり、軽率なコエリョらが迫害の引き金を引いたという印象がますます強まる。
 しかし家康は、慶長17年条々五箇条のご禁制によって、煙草売買や牛殺しと共に、キリシタンであることを同レベルの罪として、下々もキリシタンであることを許さないようにした。
 不干斎ファビアンは元仏僧で論戦強く、いろんな仏僧との宗論に使われていて有名なキリシタンで、後に棄教して反キリスト教の書を著すことになる。彼はキリスト教の世界の合理性を説得的に語れる人で、仏教の神秘性・不合理性を攻撃しているが、キリスト教にも同じような神秘性とか不合理性(宗教である以上当然持っている部分)があるということについてはわかっていなかったようだ。そうした基本的な部分がわかっていない人を論戦にかりだすなど便利使いしていたが、後に彼が反キリスト教の急先鋒となった。それはしっかりと教理学ばせたり、その労に報いたりしなかった教会の失策よな。
 そうした禁令下での天正使節団、四人のラガッツィ(少年)のその後。
 伊東マンショは1608年に司祭となり、家康のキリスト教の全面禁止の前、1612年に病死する。それは、まだ幕府の大禁制が出て、神父が国外追放される2年前のことだった。
 原マルティーノは、マンショと同時期に司祭に叙せられ、伝道と宗教書の翻訳、ラテン・ポルトガル・日本語辞典の編纂などを行った。そしてその後追放されてマカオに行き、その後も書籍に携わる仕事をしていたようだ。彼は最初の日本人司祭ルイス・ニアバラと共に、日本の教会屈指の秀才だった。そして追放先のマカオで没した。
 千々石ミゲルは信仰上の疑問で教会を去り、武士となる。そして彼は神も仏も拝まない無宗教の徒となった。キリスト教棄教した後も迫害はしなかった。没年不明。
 中浦ジュリアンは司祭となり、日本に潜みながら務めを果たしていたが1633年に検挙され、60歳で穴吊りに5日耐え殉教する。