完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯


完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 (文春文庫)

完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

東西冷戦下、国家の威信をかけた勝負を制し、米国の英雄となったボビー・フィッシャー。「チェス界のモーツアルト」と評される彼はしかし、度重なる奇行と過激な発言で表舞台を去る。神童はなぜ狂気の淵へ転落したのか。長く親交を結んできた著者が、手紙やKGB、FBIの末公開ファイルを発掘して描いた傑作評伝。


 アメリカの伝説的なチェスプレイヤーであるボビー・フィッシャーの伝記。伝記なので、チェスから遠ざかり遁世し、零落し、また反ユダヤ思想をこじらせていた後半生についても結構な分量が書かれている。表に出ていなかった謎めいた彼の後半生は、明るい出来事はほとんどないけど知らないことだらけだったこともあって関心を持って読めた。
 フィッシャーはニューヨークの貧しい家庭で育ち、母と姉との3人暮らしだった。彼の父親は元夫の名で登録されているが、実際の父は当時母が付き合っていた学者のようだ。
 7才の時にチェスマスターが多面指しするイベントに参加して、チェスマスターと対戦する。そのときは負けたが、彼の対局を見たカーマイン・ニグロが、子供なのにひらめき型ではないが初心者にしては理にかなったうち方をする彼の手筋を気に入って自分が会長を勤めるブルックリン・チェスクラブに回避はいらないから来ないかと勧誘。そこからそのクラブやニグロに連れられた場所で、大人たちとチェスを指す日々がはじまる。多く対局し、非常に多く研究することで強くなっていく。
 子供時代のこまごまとしたエピソードが書かれているのが面白いな。優れたチェスの才を持つ少年は、多くの人にその才能と彼のチェスへの熱中に感銘を与えて、それでカーマイン・ニグロやジャック・コリンズなどの大人のチェス・プレイヤーたちに世話を焼いてもらったり、ロウクスという変わり者な金持ちにチェストーナメントに出る必要経費を援助してもらったり、あるいは彼や他のチェスプレイヤーとともに来るまでアメリカ各地を転戦して、最後はキューバ(革命前)までチェスをしにいったりといったエピソードが楽しい。そうした大人たちがチェスにのめりこんでチェスのことばかり考えているようなチェスが非常に上手い少年、小さな友人であるボビー・フィッシャーに対して、喜んであれこれと世話を焼いたり援助しているさまを見るのはなんか和むわ。
 当時圧倒的にソ連のチェスプレイヤーが強かった。というのもアメリカにはプロのチェスプレイヤーがいなかったが、ソ連にはプロがいたということでトップに大きな差があった。
 13歳の時に「世紀の一局」と呼ばれることになる名試合をして、その棋譜が世界中のチェス雑誌に載った。
 15歳の時にソ連渡航したが、そのときソ連は歓待はしたが、現状では脅威でなくとも最終的にはライバルになるとわかっていたのでトレーニング法を見せたり、チェスで対戦することもなかった。また、フィッシャーもそんな対応に腹を立てて、彼は自分がえらいようふるまう人だから、苛立ちもあってそうした気質が表に出て尊大にふるまったことでソ連のチェスプレイヤーに嫌われる。そしてフィッシャーもそうした冷たい対応に怒って、それまで彼はソ連のチェスの本をロシア語を学んで読んでいたし、多くの素晴らしいチェスプレイヤーがいて憧れの国だったが、このことがあって以後ソ連を嫌うようになる。
 チェスのセコンド。相手のオープニングを研究してその弱点を探したり、対局が日をまたぐときに、検討したり選手を励ましたりという役割がある。フィッシャーが勝てる試合だったが、相手方のソ連側の面々が必死に考えて引き分けの筋を見つけて、それで引き分けてフィッシャーが怒ったというようなエピソードをwikiかどこかで読んだ記憶があったけど、ソ連はそうしたメンツが特別に豪華というだけで別にセコンドにそうした面で頼ることがいけないというわけではないのね。
 フィッシャーは天才といってもひらめきがすごいとかではなく、ものすごく研究して基礎がめちゃくちゃきちんとしていて誰が相手でもスタイルをほとんど変えないというのだから、正統派にめちゃくちゃ強いという感じなのか。
 15歳で大会で世界で2、3番目に上手いチェスプレイヤーと引き分けてアメリカ国内のチェス界に大きな衝撃と喜びを与えた。
 フィッシャーはチェスの世界で有名になり、彼とお近づきになろう、一度会おうとするような面々が増えて周りが騒々しくなるにつれて高慢になり、問題児になっていった。
 ギンズバーグという記者が歪曲(創作)したインタビューによって記者不信となる。
 その強さで、ソ連勢から強烈にマークされる存在となって、フィッシャーをさまざまな角度から分析する秘密研究所まで作った。
 1972年にフィッシャーが世界チャンピオンとタイトルを掛けて戦う挑戦者に決まったとき、ソ連は『世界チャンピオンのタイトルを34年間保持し続けて』(P298)いたので、非ソ連人非ロシア人で世界タイトルをかけて戦うことになるのは第二次大戦以来初のことだった。
 そうして大きな期待を背負った世界チャンピオン戦だったが、フィッシャーは賞金についてあれこれと文句をつけて、中々対極の地であるアイスランドに中々行かずに期待していた人々をやきもき(あるいは興ざめ)させた。そのうちに大統領からも世界戦へ行くように手紙で要請されることになる。
 実際の対戦となっても神経質になって、生来のわがままぶりが増大したこともあってか、あれこれと文句をつけて対戦相手(世界王者)のスパスキーにも迷惑をかける。
 フィッシャーの勝利は国内に大きな反響を呼ぶ。その数年後に行われることになった世界タイトル戦で、10勝先取にせよとルール変更を運営側迫ったがそれを拒否されて(解説によると、それをするとあまりにも世界タイトル戦の期間が長くなりすぎるようだ)、頑なになって防衛線に出ずに世界タイトルを失い、そしてそのまま彼は表舞台から姿を消し、流浪の生活を送ることになる。
 このボビー・フィッシャーが提案しているのだから通るはずだという傲岸不遜さや自己中心性もあるだろうし、これまでの経験からゴネればなんとかなると思っていたのかな。しかし結局そんな我儘は通らずにタイトル剥奪とあいなる。
 世界王者となった後、反ユダヤ的な傾向が顕著になったようだが、母親が宗教的なことにそんなに熱心でなかったとはいえ母親はユダヤ人で、ユダヤ教の13歳のときの成人の儀をしたかは不明だが、それに備えて勉強していたようなので少なくともそのときまでは一応ユダヤ教徒で、血統的にはユダヤ人(ユダヤは母親によってユダヤ人かどうかを決めるため)なのに、そして子供の時分の近所の人々もユダヤ人だし、チェス界にもユダヤ人が多いのに、後年強烈な反ユダヤ主義者になったことは不思議でならない。母子家庭で育ち、母親との仲も悪くないのに、どうしてそうなったのか。
 いや、気難しい我がままな性質と周囲がユダヤ人が多いということで、嫌いなやつの多くがそうだからということから飛躍してそうなったのだろうか? 勝手な想像だけど。
 その後ファンレターをくれた少女に魅かれたフィッシャーは、彼女が再び彼の対局が見たいといったこともあって、ユーゴスラヴィアでかつて世界タイトルを争ったスパスキーと行わなかった防衛戦と同じ賞金を掛けた試合を行うことになる。しかしそれが制裁措置に反すると警告を受けたのに、それを意に介さず、さらに止めるよう送られた手紙に唾を吐いた。そのことでアメリカに帰国できなくなりあちらこちらの国へと移り住むことになる。
 復帰のきっかけとなった少女に惚れていたし勝手に付き合っていると思っていたフィッシャーだが、30歳の年齢もあって当然ふられる。
 9・11についてのフィッシャーがフィリピンのラジオで発した放言によってパスポートが取り消され、成田で拘留されることになる。その後彼を助けるためにかつて彼が世界王者となったときの世界戦を開催した地であるアイスランドの人々の運動によって、彼にアイスランドの市民権を与えられ、アイスランドに国外追放されることになり、そして彼はアイスランドで人生を終えることになる。