修道院 祈り・禁欲・労働の源流

修道院―祈り・禁欲・労働の源流 (1981年) (岩波新書)

修道院―祈り・禁欲・労働の源流 (1981年) (岩波新書)

出版社内容情報

夜明け前に起き,質素な食事をとり,定められた労働に従い,厳しい戒律を守って,神への祈りに一生を捧げる修道士たち.本書は,エジプト,パレスチナに始まり,ヨーロッパで確立し,全世界に広がった修道院,修道会の歴史をたどり,みずから改革しつつ再生してきた修道のための組織と使徒的生活の意味を,史料に即して明らかにする.

 キリスト教修道制は一般的にキリスト教初期にエジプトで修道生活を営んだ聖アントニウスからはじまったと考えられている。しかし彼より20年前に修道生活に入ったテーベのパウロがいるし、共住修道院修道院本来の姿とするならば320年ごろのエジプトで共同生活による修道院を作り、修道規則を書き残したパコミウスもいる。なぜ、それらの人物ではなく聖アントニウスが修道制の始まりとされているのかというと、アレクサンドリア司教アタナシウスが『聖アントニウス伝』でそう書き残したからだ。
 しかし何故そう書き残したのかと言うと、アタナシウスは反アリウス派の闘士で、聖アントニウスも同様に反アリウス派の闘士だった(そしてパコミウスには特別反アリウス派的なエピソードがなかった)からだ。そのため伝記を書くにあたっては、ギリシア語圏の修道士を反アリウス派にするという意図があったようだ。
 ちなみに、著者によれば聖アントニウスとアタナシウスは交際があったかもわからず、聖アントニウスの態度はアタナシウスに感化されたのかもしれないということのようだ。
 しかし修道生活が孤住方式から共住方式へ移行することについてのパコミウスの役割はとても大きなものだったようだ。
 キリスト教修道制はエジプトで発生、形成された。
 『クムラン文書の発見によって、キリスト教以前のユダヤ教修道院制が虚構であるという考えは完全には期された。しかも、クムラン宗団の生活はエッセネのエジプト支流ともいうべき一団[テラベウタイ]の宗教生活と、いちじるしい類似を示している(新見宏訳『死海写本とキリスト教の起源』』(P19)。エッセネ派ユダヤ教修道院は後のキリスト教修道制とよく似ている。エッセネ派と初期キリスト教徒には密接な関係があって、エッセネ派はローマ軍の弾圧ではなく、キリスト教に吸収によって消えたとも推測できる。
 6、7世紀のアイルランドは学問で有名で、てイングランドフランク王国などから留学生がきていた。そうした知的風土は、当時イタリアはゴート戦争で荒廃していたため、エジプトやシリアなどの東方世界との交流で育まれた。非キリスト教世界への布教で殉教者を一人も出さなかったのはアイルランドだけというのはちょっと面白い豆知識だ。そうしてアイルランドキリスト教の特色、その隆盛などを見ると、アイルランドキリスト教受容の歴史についてちょっと詳しい本を少し読んでみたくなるね。
 聖ベネディクト会則は『後にほとんど全西欧の修道院で、基本原則とて遵奉された』(P72-3)。そして『修道院はこの『会則』によって始めて西欧的形態を取得し定礎した』(P80)。
 しかしこの会則が基本原則とて遵奉されるようになるのは、『彼の死後数百年を経た後のことであって、その生前も死後暫くの間も、彼の名を知るものは極めて少なかった。』(P73)
 東方やアイルランド系の厳格なものと比べて、あまり厳格すぎず緩すぎずのほどよい規定なので重宝された。
 会則は、ゲルマニアでは740年代に大きく広まる、ガリアではカール大帝以後普及に努めた。
 9世紀半ばより一世紀で修道院が規律が弛緩して、世俗化した。クリュニー修道院は聖ベネディクト会則を無条件に実行するという改革(それほど遵守されること少なくなっていた)をして台頭。クリュニーの典礼東方教会からの影響が強くある。
 一人の修道院長が二つ以上の修道院長を兼ねることは、イノケンティウス二世(在位1130-43)が認めるまで禁じられていた。そのためクリュニー派修道院は、『以後固有の修道院長を持たず、クリュニー修道院長のもとで、あたかも一つの共同体のように組織され、生活様式も全くクリュニーの習慣による』(P115)としたロマンモーティエの寄進方式のような形によることで組織を形作ることになったが、『その連合組織はクリュニーによるものが最初であったし、その所属修道院の数も空前のものであった。』(P123)。
 クリュニー派、1世紀以上の時を経ることで、贅沢になった慣習が重要視されるようになった。そのため会則を厳格に実践しようとするシトー派が登場してきた(初期のクリュニー修道院長もそうであったように)。
 組織の全体像としては、クリュニー派は中央集権的だったのに対して、シトー派は各修道院に対して本山修道院長は『娘修道院長の意に反してはどんな命令も下すことができず、どんな干渉を加えることもできなかった』(P137)し、それぞれの修道院は経済的・精神的に自立したものだった。
 カトリックプロテスタントの中間的な路線をとる英国国教会のある英国では、カトリシズムを高く評価するものが存在し、19世紀のカトリシズム復興のさなかにカトリックに改宗する人が増えた。それに対して国教会の内部改革を意図したオックスフォード運動が1833年から展開された。そうした運動の影響もあった19世紀半ば頃より(プロテスタントでは修道院がほとんどなかったが)国教会の修道院がいくつもできはじめる(女子修道院が中心)。そして英国国教会のそうした動きの影響から、他のプロテスタント諸国でも修道院が作られるようになった。