仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

内容(「BOOK」データベースより)

日本仏教はなぜ「悟れない」のか―。大型新人による決定的な“解脱・涅槃”論!


 非常に理解しやすく仏教思想の根源的なものが説明されていて面白かった。個人的にも仏教理解のゼロポイントとして何度も読み直すと思う。
 この本ではゴータマ・ブッダがたどり着いた境地である仏教のゼロポイント(解脱=涅槃)の説明がなされる。

 仏教は何を目指し、そうすると何になるのか。
 仏教は解脱・涅槃を目指し、達成され執着を離れると「物語の世界」・意味の世界(無常なものを意味づけする、人々が共有する価値尺度)から解放される。

 ゴータマ・ブッダの仏教は、人間として正しく生きる道」を説くものではない。その観念の前提にある「人間」とか「正しい」という物語を破壊する作用を持つものであり、『このことは、仏教を理解するうえで、「絶対にごまかしてはならない」ことで』(P37)ある。
 しかしゴータマ・ブッダの説くところは「脱善悪」であり「反善悪」でないので、涅槃を目指す妨げにならない限り、自他に「楽」をもたらす「善」は積極的に推奨しても良い。逆に悪はそうした行為をすると苦になり、苦しみすぎれば解脱への未知の実践を行うこともおぼつかなくなり、最上の楽(解脱・涅槃)から遠ざかる。そのため、悪をなさず善を行いなさいと説くのが仏教倫理の基本。

 この世界には「縁起」という法則があり、縁起によると全ての現象は原因(条件)によって成立している。その縁起の法則が衆生の迷いの状態・苦なる現状を構成している法則である。ゴータマ・ブッダの仏教はその法則を徹見して、それを消滅させることを目指す。
 全てのものはそうして生成される一時的なもので「無常」である。そのため欲望の充足を求めても、因縁によって形成された無常のものである以上、『欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかない』(P51)。苦=不満足。
 そして全ての現象は原因・条件によって生じた一時的なものであるものなので、実体は存在せず、それらは「無我」(「己の支配下にはなく、コントロールできない」)である。そのため「無我」も『無常や苦と同じく、縁起という現象の根源的な性質の、別の表現の一つに過ぎない。』(P55)
 衆生の生は迷いの状態、苦の状態であるため、輪廻転生でそうした苦の状態にあることを延々と繰り返さないように解脱・涅槃を目指す。ゴータマ・ブッダが語ったそのための方法を簡潔にまとめてあるのが「四諦」。
 ゴータマ・ブッダが説いた当時、輪廻的生存状態に留まることは望ましいことではないという問題意識は共有されていた。その中でゴータマ・ブッダの教説の魅力的だったのは、衆生の苦の存在のあり方を徹底的に分析し、そこからの解脱は不可能ではないと示したことであり、自らの人格でその言葉を納得させた。

 いまここが涅槃だとする言説は日本で人気がある。しかし、そうした風光を見ることができるのはあくまで世界を終わらせた、現法涅槃を達成した人。そうした人から見れば現実を涅槃とみることができるが、それはあくまで渇愛を滅尽した人にとっての話。

 なぜゴータマ・ブッダが解脱した(悟った)後に『「物語の世界」への再度の介入』(P165)をして仏教を教えはじめたのか。
 悟って分別の相が滅尽して、仁愛や人情もない境地であるはずの戯論寂滅の状態から、慈・悲・喜という利他の働きかけが生じたり、ゴータマ・ブッダがそうした境地に至った後に物語の世界に生きる衆生への働きかけの動機はなんなのか。
 「梵天勧請」のエピソードから、悟った後のゴータマ・ブッダにあわれみの心があったこと、そして慈悲心によって利他の実践をするかどうか(語れば悟れるもののため語るか)、それをいかに・どの程度のレベルで行うのかに選択の余地(自由裁量)が存在していたことがわかる。
 物語の世界への再介入は無意味なものかもしれないが、無意味だということが意味を持つのは、他に有意味なものが存在している場合であり、涅槃に至ったゴータマ・ブッダにとって有意味なものは存在しない。『では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけをおこなおうとする人々の心境はいかなるものであるのか。敢えて原語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」というのが適切であると思う。』(P173)
 解脱すると執着の楽しみから離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することで「最高の楽」を得る。『対象への執着が無く、利益が得られるわけでもなく、必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶことは赦されるだろう。仏教では何者にもとらわれない自由闊達な仏の境地のことを「遊戯三昧」と形容するが、ここで言う「三昧」は「集中」というより「まじりけがない」というほどの意味。つまり、解脱者の生きる時間は、その本質として、純粋な「遊び」であるということだ。』(P176)
 解脱者の慈悲行は衆生への執着なく、「ただ助ける」もので「遊び」である。ただし、そのような慈悲の実践は「遊び」であるからといって、決して真剣に行われないわけではない。
 『解脱者の「遊戯三昧」は、子供の「遊び」よりももっとまじりけがない。』(P177)解脱者にとって生きる時間全てが遊びで、自分含めた全てが公共物と見ている以上命を捨て去ることを厭わない。『彼らにそれができるのは、慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなく、むしろそれが、「何かそれ以外の大切なもの」を別のどこかに確保しておくことの全くない、純粋な「遊び」そのものであるからだ。』(P177)
 覚者が物語世界への再度の関与、慈悲の利他行を行うか、それをいかに・どの程度のレベルで行うかは各解脱者の「自由な選択」の問題。その境地を他者に開示しない者も、ゴータマ・ブッダのように悟れる衆生のために教えようとする者もいれば、大乗仏教の『十地経』の菩薩のように一切衆上を一人残らず救おうとする者も居る。そうした違いがあるのは、『覚者にとっては真理を体得して以降のあらゆる「行為」が、本質的に純粋な「遊び」であることを考えれば、実際には当然のことである。』(P179)大乗の菩薩と違い、涅槃に入らず一切衆上を救う実践はしなかったというだけ。
 ゴータマ・ブッダは解脱して自足的、何も必要としない境地から物語の世界に手を差し伸べることで、全てではないが教えることで悟れる可能性のある者たちを救おうとした。それは「遊び」ではあるのだが、凡夫の視点から見ればゴータマ・ブッダによる新しい物語の形成に映る。
 その物語は教えの実践によって、人々が物語の外に出ることを可能にする物語。それは物語の世界に生きる衆生を外部へ導くための「筏」(有名な筏の教えのように、物語を手放すための一時的な物語)。
 仏教の多様性は、解脱した『覚者それぞれの「物語の世界」への対応の仕方の差異によって生じるものだから、それらのうちのあるものが「正しく」て、あるものは「間違っている」と、決め付ける必要はない』(P183)。この著者の見解は目からうろこ。「遊戯三昧」の境地から語られているならば仏教。

 ゴータマ・ブッダの仏教の目的は解脱=涅槃に至ることだが、『中論』のように世間と涅槃の区別を無効化する立場に取ると、世間諦と出世間諦も無効化され、物語の世界を如実如見すればいいことになり、涅槃の領域を考えることは余計と言う主張も生じる。そして実際大乗仏教徒にとって現世で解脱を決定的にする必要ないので、涅槃を覚知する重要性が下がる。そうした立場はさらに分別・無分別、本来性・現実性の差異の区別を無効化する。こうした傾向は日中朝の東アジア仏教に色濃い。
 また、「本来性」と「現実性」との関係のとりかた各仏教者によって見解相違は大きく、テーラワーダ仏教国も「本来性」と「現実性」との関係のとりかたには、微妙な差異ある。
 しかしそのような「物語世界」における利他の実践、「現実性」の重視は、あくまでも解脱した立場からの「遊び」として(原理的には)行われる。