シャーマニズム 下

シャーマニズム 下 (ちくま学芸文庫)

シャーマニズム 下 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「最も重視したのは、シャーマニズム的現象そのものを紹介すること、そのイデオロギーを分析すること、その技術とシンボリズムと神話とを検討することである」(序言)。著書の意図は明らかだ。実証的個別研究の一つとして本書を遇しては、その意図を見誤ることになろう。「超歴史的」、「類型的」アプローチから見えてくる宗教現象の普遍的古層こそが、エリアーデには重要だった。世界の再神話化を目指す、すぐれて20世紀的な試みとして本書を読むことが可能である。本巻には、南北アメリカ、東南アジアとオセアニア、印欧系諸民族、日本を含む東アジアを扱う第9章以降を収録。

 下巻はほぼほぼ世界各地のシャーマニズムあるいはシャーマニズム的なことがらについての紹介がされている。それらを見ることで、上巻ではシャーマニズムについて説明されたが、同じようなシンボルやイメージ、儀礼や行いなどがいかに世界各地で見られ、共通している部分があるかを実感することになる。
 つまり上巻でシャーマニズムあるいはシャーマニズム的ものの共通性みたいな概論的なことが書かれて、下巻では実例見ながら、改めてその共通性についての説明があるという感じ。
 北米のシャーマン『ほかに宗教儀礼がないから、シャーマンによる治療は特に重要な儀礼なのである。患者の家族がシャーマンを呼ぶことと、シャーマンに対する報酬の決定とは、それ自身宗教儀礼的性格を持っており、不当に高い報酬を要求したり、何も要求しなかったりすると、彼は病気になってしまう。それにその治療に対する報酬を決定するのは彼ではなくて、彼の持つ「力」なのである。無報酬の治療を受け得るのはシャーマン自身の家族だけである。』(P28)こうして治療費を絶対取らなければならないと理由付けをしてあるのは面白い。でも報酬によって質が代わるとか万が一でも思われたりしないためにも、そしてシャーマンが商売っ気を出して神秘性を失わないためにも、そうして治療・儀式を行う対価を取る理由がしっかりしているのはいいことよね。
 『冥界の地理についての知識や、エクスタシーを使っての千里眼の能力をシャーマンが活用するのは、原則的には患者の魂を探しに行く際に限られる。魂の彷徨や、北米のシャーマンがそれを探しに出かけること(中略)この信仰が北米、とりわけその西部によく見られる』(P40)その種の信仰シベリアにもあるが、南米にもあるとのこと。
 『われわれは今まで、インディアンが誰でも宗教的な力を探し求め、シャーマンが自分の補助霊や守護霊を獲得するのに用いるのと同じ技術で、獲得した守護霊を自由に使っていることを述べてきた。俗人とシャーマンとの差は量的なものである。すなわち、シャーマンは俗人よりは多くの、自分を導いてくれる精霊や守護霊と、俗人のよりは強力な呪術宗教的「力」を位のままに使えるのである。この点では、インディアンの一人ひとりが「シャーマン化」していると言ってよかろうと思う。』(P45)
 北米のゴースト・ダンス教は神秘的技術が単純であったから隆盛した。踊り続けてトランスに入り、そして気絶してその最中に死者に会う。そして『踊っている人は病気なおしとなり、星や神話上の人物や動物、さらにトランスの中で得た幻覚を絵文様にした儀礼服ーー「亡霊のシャツ」――を着』(P53-4)るなど、シャーマニズム的な要素は多い。ただし『例えばイニシエーションと秘密の伝統能力とが欠落していることは』(P54)著者のシャーマニズムの定義からは外れている。
 また、終末論を唱えたゴースト・ダンス教はエスカトン(夜の終わり)で 神話的な過去の天界との交通が容易だった時代が、『天界との「容易な交通」の再建を体験する時が来たと信じていた』(P54)。
 南米のシャーマンが行う『病因の吸い出しや摘出には、呪術宗教的手術の痕跡が認められる。多くの場合その病因「物」は性格上、超自然的であり、妖術師や悪魔や死者によって眼に見えぬよう体内に投げ込まれたものである。要するに、病因「物」とは、この世のものではない「病禍」が人に知覚され得る形であらわれたものにすぎないのである。』(P63)
 『カフカス人とイラン人との他界観念の驚くべき類似を指摘してきた。実際、チンヴァト橋は、イランの葬送神話に老いて本質的な役割を演ずる。それを渡ることが魂の運命を有る意味では決定する。それは苦しい試練であり、構造的にはイニシエーション的試練に等しい。チンヴァト橋は「多くの側面を持つ大梁」であり、いくつかの通行条件がある。つまり、正しき者にとっては、橋の幅は槍九本分あり、悪しき者には、幅は「剃刀の刃一枚分」の狭さとなる。この橋は「世界の中心にある」(中略)要するにこれは「世界の中心」で橋が天地を結んでいるということである。チンヴァト橋の下は地下階の穴になっている。』(P165-6)
 『バラモン行者が行う綱芸当は、綱が空中高く昇ってゆくとの錯覚を起こさせる。師匠は若い弟子にそれを登らせ、ついに姿が見えなくなる。師匠がナイフを空中に投げると、若者の手足が次々に落ちてくる(中略)この綱芸当はインドで長い歴史を持つが、これは二つのシャーマン儀礼』(P226)肉体の解体(再生)と天上への上昇と比較できるとのこと。そして『この綱芸当は、インドの行門派に特異なものとなっているが、はるか遠く離れた中国、ジャワ、古代メキシコ、中世ヨーロッパにも見られる。』(P227)どういうタネなのかちょっと気になる見世物であるが、そういうものがそんなに広範囲で見られたものだということに驚き。
 『他の地域と同様、中国でも、祓魔師や霊媒は、むしろシャーマン的伝統の亜流を代表する。うまく霊を操作でできぬ人は「霊に憑かれる」からだ。』(P247)
 鍛冶屋の『「火を統御する力」と、とくに金属の呪術とのゆえに、いたるところで、鍛冶屋は恐るべき妖術師としての評価をあたえられてきた。だから彼らに対しては矛盾する態度が取られる。彼らは軽蔑されると同時に畏敬される。』(P288-9)
 「神秘的な熱」『多くの「未開」の部族は呪術的宗教的力を「燃えている」と想像し、もしくはそれを「熱」、「燃焼」、「ひじょうな熱さ」といった意味の語であらわす。』(P291)そして『同じ思想はもっと複雑な宗教にも残存している。こんにちのヒンドゥー教はとくに力ある神々に対し、「ひじょうな熱さ」、「燃えている」、もしくは、「火を持っている」、といった形容を用いる。インドのマホメット教徒は神と交通する人は「燃えているもの」になると信じる。』(P292)
 ランスロットの剣の橋など「危険な通路」の儀礼。死者のうちでも『ただ「善」なるものと、イニシエーション儀礼を受けた者だけが、この橋を容易に越えることができる(後者は儀礼的な死と復活とを体験してきたから、その道を知っているわけだ)。(d)それにもかかわらずある特権をもつ人物は、シャーマンのようにエクスタシーにおいてか、もしくはある種の英雄のように「力」によってか、もしくは「知恵」とかイニシエーションを通して「逆説的」にか、その生存中にこれを越えるのに成功する。』(P300)『この「狭い小径」とか「危険な通路」は、葬送神話とイニシエーション神話との両方に共通のモチーフである(われわれはいかにこの両者が緊密に関連し、ときには結合さえしているかを見てきた)』(P302)
 『すでに見てきたように、シャーマンのエクスタシーは、人間の状態を「失楽園」以前に回復することとみられ得る太初の「状況」を再現することである』(P310)。
 訳者あとがきに『ユダヤキリスト教関連資料におけるシャーマニズム的痕跡についての指摘ないし考察、また現代のメシア運動ともいわれる新宗教運動の教祖や指導者のもつシャーマン的性格についても、北米インディアンの「ゴースト・ダンス教」を除いてはわざと避けて通ったところが見られなくはない。』(P355)とあって、読んでいる最中にキリスト教のそうした要素についての話を避けていると思ったが、キリスト教についてろくに知らないので本当にそうした要素がない(薄い)のかなと少し考えもしたが、やっぱり避けていたのね。訳者あとがきにそれが書いてあってスッキリ。