江戸考証読本 一

江戸考証読本 (1) 将軍様と町人編 (新人物文庫)

江戸考証読本 (1) 将軍様と町人編 (新人物文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

徳川将軍と町人の暮らし、江戸城の日々、大奥のあれこれ…時代劇でおなじみのシーンは、歴史と史料に精通した時代考証家の存在なしには成立しない。「新しい将軍を迎える儀式とは?」「将軍の服装に隠された秘密とは?」「御台所が恐れるお正月の行事とは?」「三下り半の正しい書き方とは?」などなど、江戸時代に我々が抱くイメージを塗り替えるうんちく、言われてみると知らない雑学が満載。大河ドラマ時代考証を多く手がけた著者が、江戸の奥深い愉しみを語り尽くす。目が肥えた時代劇ファンも納得の、読んで楽しい時代考証本の決定版。

 この種の本はたまに読みたくなるな。ただ、そうして読んでいるから、必然的に読んだことがあることがらの話が当然多くなる。そして、新しく知ったことか、読んで忘れた事柄かよくわからなくなる(笑)。そうしたこともあって、この本はシリーズみたいなので、それを読めばある程度全体つかめて、今後は基本それを読みなおせば良くなるかなと思って購入。
 こうした歴史読み物は気軽に読めていいね。タイトルはちょっとおかたくも見えるけど、巻末をみると単行本時は「楽しく読める江戸考証読本」という題だったようで、そこからもわかるように読みやすい。
 徳川の葵の紋、徳川宗家に遠慮して他の徳川・松平家の葵の紋は微妙に変えてあることもあって、、数十種の葵の紋がある。
 葵小僧という盗賊は、堂々と葵の紋を駕籠や提灯につけて徳川一門を装って大名屋敷に潜入したり、豪商の家に押し入って強盗をして、堂々と帰った。1791年4月ごろからそのような犯行をしていた。火付強盗改長谷川平蔵は葵の紋に違和感を覚えたが全ては覚えていないので、何の守の行列でしょうと質問して、答えが明らかに違ったことで葵小僧は御用となる。ただしwikiを見てみたら逮捕の顛末が違ったので、これは後に作られたエピソードなのかな。
 幕府が書面を出すときの宛名の「殿」は、『御三家なら楷書だが、家格が落ちると草字体に崩し、平大名では「どの」と仮名書きになってしまう。』(P35)そこまでやるのか。
 1867年京都で水戸藩士が、土佐藩の粗暴な足軽に殺された事件。1870年(明治3年)に殺された男の二人の息子が仇討ちを果たして、禅正台に自首するが、『明らかに仇討ちと認められ、釈放されると同時に、七之允の孝心賞すべしとして、後に司法省出仕を命じられている。』(P72)明治初年には復古的ムードもあったし、年号が変わってたちどころにすべてが変わるはずもないので、江戸時代的なこの沙汰はおかしいことでもないとは思うけど、それでも仇討ちを賞して、司法省に入れるというのはなかなか面白くもある。そして水戸藩土佐藩ということで維新関係の誅殺とかを想像するけど、この沙汰をみるに、そういうことではなく単なる殺人ということなのね。
 抜け井戸、井戸の外見をしている抜け穴。それなりにポピュラーなものだったみたいだが、その存在はちょっと面白くて興味がわく。
 喜寿が七十七歳の祝いなのは、「喜」の草体が「森」という漢字のように七が3つ連なった文字であることからきている。
 渡辺幸庵、1582年生まれで家康→秀忠に仕えて、その後忠長に使えることになったが彼が領地没収、切腹となったあとは浪人となる。明やベトナム、インドを数十年旅して、130歳近くまで生きたという。加賀藩主は家来をやって、彼の体験を聞き書きさせて「幸庵対話」をまとめた。知らなかったけどなかなか興味深い人物だな。wikiみるとやっぱり荒唐無稽な話など証言の怪しさや年齢もあって、本物ではないのではないかということみたいだが、偽物なら偽物で経歴偽って加賀藩主に興味を抱かせて、一つの書物を作らせたのだから面白い。
 『町人の身分とは何かと言えば、家持・地借・店借・召使とふつう呼ばれるものである。第一番目の「家持」は、家康とともに江戸へ入り、軍需品と兵糧集めに協力した功により土地をもらった功労者。泰平つづきにその土地に家を立て、家主階級として遊んで食っていられた。第二の「地借」は、新道・横丁でまずまずの商売をする中産階級である。/ この三者は自分のことを江戸っ子といわず、つつましく「江戸者」といった。』(P222)家持というのは、家康時代に功があった人たちだったのね。
 武士が貧窮していくなかで、下級の武士たち(御家人など)が内職を始めたことで、彼らの物腰が職人臭くなる。まずはそこから武士の町人化がはじまる。
 長屋の『六畳の間の右奥には、たいてい竹橋語の階段があり、形ばかりの中二階がついていた。荷物の置き場にしか使えないが、その荷物が殆ど無いのだから無用の部屋。』(P247)
 豪商鴻池が山中鹿之介の子供からはじまったというのは知らなかったが、面白い事実。
 『番頭は公的名称ではなく、手代の上位にいる者の俗称で、数名いる時は最古参を支配人といった。』(P319)
 除夜の鐘は除夜の108回撞くが、107回はその年のうちに最後のものを翌年に撞く。そのため西洋の時計が多く入ってきて、正確に細かく時を区分できるようになった明治から習俗となった。