だから仏教は面白い!

講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)

講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

仏教は、こんなにヤバくて面白い!ゴータマ・ブッダという人は、何を考え、語ったのか?仏教を「実践する」とはどんなことで、その結果いったい何が起こりうるのか?はたして「悟り」はほんとうに実現できるのか?―楽しいたとえばなし満載!素朴な疑問に答え、仏教のいちばん大切な核心がわかる、最強の入門講座へようこそ!

 Kindleを導入したのは昨年12月からということもあって、Kindleで出ていたのを見て面白そうだなと思いつつも読めていなかった。まさか文庫化してくれるとは思っていなかったので嬉しい。
 まえがきによると、電子書籍化を前提としたツイキャス上での講義が元とのことで、語り言葉で書かれている。同著者の「仏教思想のゼロポイント」で語られていることと共通する部分が多かった。「ゼロポイント」では思想についての細やかな説明が多くされているが、本書は卑近な例えなども多く用いつつざっくばらんに語っているという印象。
 生殖行為の禁止、淫欲の繋縛はただそうした行為をしなければいいというものではなく、『むかし女の子とこんなことしゃべったなあ、みたいなことを思い出しても駄目』だし、『最期に修行の結果、来世において感覚的快楽に溢れた天界に生まれようと臨むことを否定する(7)。つまり、今生では諦めても、来世に感覚的快楽の希望を繋いでいるうちはまだ駄目と言うことです。』(P24)
 欲望は苦となると欲望を否定するゴータマ・ブッダの世俗と離れた、「非人間的でシンプルな教え」が与えてくれる価値は『「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。言い換えれば、ただ存在するだけ、ただ、いま・ここに在って呼吸をしているだけで、それだけで「十分に満たされている」という、この世界における居住まい方』(P48)。
 私たちはこれをすればこうなるという取引をして人生を送っていて、そうして欲求を満たしている。しかしそうした欲求充足の行為に終わりはなく、常に新しい刺激がほしくなる。そうして幸福を求めているが、そうやって何かを求める欲求が満たされることはなく、常に苦(不満足)となる。
 それについて現代日本の人生は一度きりという考えだと、一度の人生で快と苦痛のバランスシートがプラスで終われば良いと思う人も多い。そうして『「刺激ジャンキー」として人生を過ごすことが、一回だけならいいんですよ。せいぜい百年程度の時間をなんとかつぶしきって、「はい、終わり〜」って意識がゼロになるんだったらそれでいいわけですからね。』(P65)しかし仏教・インド思想の輪廻転生の世界観だとそうした生は億・京・垓と数え切れないほどの数を終りなく繰り返すことになる。『喩えていえば、RPGロール・プレイング・ゲーム)のレベル上げを何度も繰り返すようなものですね。RPGの世界のどこかに生まれて、レベル上げをずっとしていく。それでレベル67になったくらいでプチンと電源を落とされるわけです。そうしたらまた次の世界に生まれて、そこでレベル1から再びレベル上げがはじまるという(笑)。』(P66)しかも生まれる場所によってはあっさり死ぬ場所もあるし、そもそも人として生まれないかもしれない。そうして生産性のないことを延々と繰り返すことになるので、インド文化圏の人たちは解脱を求める。そして日本人の多くが死ぬことで全てが終わると「信じている」あるいは「事実」だと思っているのと同様に、インド文化圏の人たちにとって輪廻転生は物語ではなく「事実」である。また輪廻転生で再度生まれることは、絶対的に生病老という苦を経験して、死ぬことを運命付けられていることを意味するので、それが解脱を求める理由である。
 『仏教では、絶対悟れない人たちのことを「一闡提(イッチャンティカ)」というんですが、これは何かというと「欲する人、欲求する人」という意味』(P70)で、ひたすら欲望の対象を追いかけ続けて時間を過ごすことが人生でそれ以外どうでもいいと思っている人たちのこと。『生き物にとって欲望の対象を喜び楽しんで追いかけるのが自然な傾向性』(P71)で社会はそうした価値観で構成されているが、それでは輪廻転生による苦は終わらないので、その流れに逆らおうとするのがゴータマ・ブッダの仏教である。したがって、そうした世間の流れを全肯定している人たちには、仏教の言葉は基本的には通じないのでその人たちは悟れない。
 大乗仏教、今生で解脱するのを目指さずに先送りにすることが『逆説的に、大乗仏教徒が「現実性」と関わりながら「この生」を生きることを肯定してくれる。』(P110)現実性と関わって利他行をすることを必ず肯定できることになった。
 我の否定。あくまでも常一主宰の実体我、自分に関する全てをコントロールできるただ一つの私、変わらない私というものは現象の世界にはないということをいっている。
 無我だからこそ輪廻する。常一主宰の実体我があったら、何故輪廻に巻き込まれているのかがわからない。『むしろ、そのような固定的な実体は存在していなくて、ただ条件によって形成された現象が、ひたすら継起を続けているのが現実である。だからこそ、輪廻というプロセスが生起し続けてしまうのだ。これが仏教の考え方ですね。』(P179)
 「世間(世界。ローカ)」とは、一切を構成する六根六境(『五感とその対象に、心とその対象を加えた』(P220)もの)が欲望を伴った認知をした時に形成されるもの。しかし欲望を伴った認知を意識的にやめることはできない。『赤ちゃんだって、お腹がすいたから泣くとか、好きな人がきたから笑うといった具合で、常に快・不快を動機とする衝動に基づいて行為している』(P222)ので、人は生まれた瞬間から欲望(煩悩)の支配下にある。
 定(サマーディ)で集中力を高めることで、『自分自身の身体の動きが細かく分節されて感じられたり、あるいは音楽が「解体」されて、連続したメロディーとして聴こえなくなったりする。』(P300)そのように知覚を変化させることで如件如実に近づき、『普通だったら現実であり事実であるものとして認識してしまう「世界」から己を引き剥がすことができる』(P302)。
 戒律で身体と言葉に表れる煩悩を防いで、定(サマーディ)をすることで意識に表れる煩悩を抑制する。戒と定で身口意に表面化する煩悩を抑制できるが、業の潜在力(潜在的なエネルギー)は滅尽できない。その潜在力を滅尽するのは戒と定に基づいた智慧
 『現象が無常・苦・無我であることは監察したが、それ以外のものを何か知っているわけではなく、かつ欲望の対象を享受すれば気持ちいいことも経験的にわかっている、という状態であれば、私たちには「我慢」することしかできません。(中略)しかし、そこで修行者が不生であり無為である涅槃の境地を覚知すると言う経験をして、それが「最高の楽(paramam sukham)であるということを事実・現実として知ったならば、そこではじめて、彼・彼女は生成消滅する現象に執着する気持ちを、本当の意味で断ち切ることができるわけです。』(P383)