神道とは何か

神道とは何か - 神と仏の日本史 (中公新書)

神道とは何か - 神と仏の日本史 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)

日本“固有”の民族宗教といわれる神道はどのように生まれ、その思想はいかに形成されたのか―。明治維新による神仏分離廃仏毀釈以前、日本は一〇〇〇年以上にわたる神仏習合の時代だった。両部・伊勢神道を生みだした中世を中心に、古代から近世にいたる神道の形成過程を丹念にたどっていく。近代における再編以前の神をめぐるさまざまな信仰と、仏教などとの交流から浮かび上がる新しい神道の姿。

 日本の神祇信仰の歴史、現在の神道ができるまでの歴史が書かれる。「神道」というと『上代から現代まで一貫して「神道」なるものが存在していたかの様な印象を与えかねない』(P13)が、『両部・伊勢神道などを生み出した中世の神仏習合的状況こそが、今日「神道」とよびうる存在を作り上げた画期だった』という観点から神道の形成史を、そして『<固有><普遍>ではなく、<変容>する宗教として神道を』(P15)書く。
 8世紀に神宮寺が出来はじめる。それが出来た由緒の話として『神は自らの存在を苦であると捉え、そこよりの救済のために、造寺造仏を人間に依頼するのである。このような神のありようを、現代の研究者は<神身離脱>とよんでいる。』(P39)
 仏は六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の衆生を救済するが、神はその最上位にいる天道にいて、人や畜生とも優れているがあくまで輪廻転生する衆生
 『特に若狭比古神の場合、加味は苦しみのあまり、疫病を起こしている。神の意思表示としての<祟り>=疫病を、仏法による救済を願う神の苦しみが引き起こすものと捉え、そのことによって、神が仏法へ帰依したがる理由を合理的に説明しようとしているのだ(このような説の背景には、疫病・旱魃などの災害が、読経の力によって制圧できるという認識が広まったことが大きい)。』(P39)疫病が神の苦しみからくる意思表示という考えは面白いな。
 そして『これらの話で興味深いのは、神は自らの救済のために人間の力を必要とする、ということである。人は自ら修行・功徳を積むことができる。しかし神は、自分自身で仏道修行をすることは叶わず、布施もできない。全て人間が代行しなければならないのである。つまり、こと仏道修行においては、神と人の力の力関係は逆転し、神は人間より劣る存在となる。これが、神域内に寺院(神宮寺)を建立することを正当化する根拠となるのである。神の多他のかかる造寺造仏を<法楽>という。』(P40)
 その時代に仏教が浸透してきて、神道との関係を説明する必要が出てきたから、このような話があらわれてきた。こうした神身離脱譚は中国の『高僧伝』『続高僧伝』にもある。
 在来の神信仰では山は神聖な場所なので『祭礼など特別な場合を除いて、みだりに入山することは、本来なかった』(P43)。だが、仏教伝来後、山の霊力を期待して積極的に山に入って山岳修行を行うようになった。しかしその行動は従来の髪進行のあり方と対立するので、聖域に足を踏み入れる合理的な理由が求められた。そのため彼ら山林修行者は<神身離脱>を根拠に山に拠点である寺院を営むことになった。そして神仏習合の最初の担い手となる。
 八幡神以後、菩薩と呼ばれる神々が登場してくるが、それは神が単なる衆生ではなく衆生と仏の中間的存在と認識されるようになったことを意味する。
 僧侶道鏡天皇にあやうくなりかかったことから、『王統の継承を承認する儀礼たる宮廷神事に僧侶が関わらないことが原則化された。これを、こんにち神仏隔離とよんでいる』(P75)。後世この事実が排仏論に利用されたが、この原則はあくまで神事に仏教を関与させないためで廃仏的なものではない。
 そして同時期に伊勢神宮にあった神宮時も別の場所に移されて、伊勢神宮の神域で仏教に関わる物事が忌避されるようになる。しかし神道神職・神官は『神事においてのみ祭祀者なのであって、それを離れれば仏菩薩の利益を願う俗衆にすぎないのである。その際、救済を自らの遣える神に願えばよいではないかとの疑問が浮かぶかもしれないが、神(特に伊勢神宮)は個人祈願を受け付けない。神官個人が来世に頼むべきはやはり仏法しかないのだ。』(P77)そのため伊勢神宮の神官たちも私人としてはやはり仏法での救済を願っていた。
 当時日本は釈迦が現れた天竺からはるか辺境に散在する粟のような島で、利生からも最も隔てられているという粟散辺土観が末法思想と結びついて、仏法による救済から阻害されているという意識があった。
 しかし『成尊はこれを否定して、日本こそが密教密教徒から見れば仏教の究極的な教え)流布にふさわしい地だと主張する。密教の日本における隆盛は、天照大神大日如来の化身であることよりすれば必然であり、その子孫における統治=王法密教と一体である。日本こそが密教相応の<約束された地>なのだ』(P86)と主張する。『これは密教化された神国思想ともいうべきもの』(P86)。その主張での『成尊の趣旨は、大日如来に発し空海に至る相承の正当性を確認し、自らが所属する日本と言う空間における密教流布の必然を説くことにあったのだが、後世ここから、大日如来天照大神空海との集合説、「大日本国」説といった、中世神道における主要モチーフが導き出される。』(P86-7)
 密教の浸透によって東大寺大仏が大日如来だと思われるようになって、大日如来=天照ということで重源が伊勢神宮参宮したこともあり、『僧侶の伊勢神宮への参宮が盛んになり、伊勢神宮は中世を通じて日本仏教の聖地のひとつであり続けることになった。』(P92)
 両部神道。両部は密教胎蔵界金剛界のこと。伊勢神宮の内外両宮をその両部に配当して、『これによって神と仏の究極的一致を説明しよう』(P92)としているもの。
 鎌倉期に両部神道書と伊勢神道神道書ができる。しかしどちらの典籍も過去の有名な人物を著者とする仮託書。この本を読んでいるとその二つの神道に限らず、どうも神道書ってそうした仮託書が多いね。
 『寺院において、神道書や関連する切紙・印信が製作されるようになると、これらをもっぱら相承する諸流派が現れてくる(略)。ただ、鎌倉期に於いては独立した流派としてではなく、密教諸流の秘事・口決として存在していた。それが、おそらく南北朝期から室町前期あたりから、独自の流派形成が始まったと考えられる。』(P102)たびたび密教の話がでてきて、案外密教って神道と関わり深いのね。
 心・神一体観、神が心中に宿るものとする理解は鎌倉時代の初期両部・伊勢神道所に見られる。『心とは神明(=仏)の主であるから、祈祷者が謹慎の誠、如在の礼を尽くすことが自らの成仏のための最も早い道だという。』(P134)そうした内なる神という観念は『罪業と救済をめぐる注瀬の宗教的思惟の所産であった。「神道」が神の教えという意味を含むに至るには、今まで述べてきたような神観念のドラスティックな変化がまさに不可欠であった。このことが前提となって吉田神道の汎神論的神観念が生まれ、更にそれが近世神道へとつながっていくのである。』(P136)そして吉田神道では神(心)は『煩悩にまみれた我が心の姿』ではなく、肯定的な観念としたので死後に心=神を祀る事が当然としたことで人を神として祀る風習が大きく広がって、豊国大明神東照大権現として秀吉・家康が祀られることにつながる。
 吉田神道創始者の『兼倶は唯一神道(吉田神道)をもって神道における密教として位置づけたのであった。』(P236)そして吉田神道は『天上と地上と人体の内部に神(霊・心)がそれぞれ存在して宇宙全体に遍満しているとする一種の汎神論である。』(P238)一般的に想像される多神教的な世界でない。
 近世初期にできた忌部神道・橘家神道などは宗派意識の強さや教説の内容から見ても吉田神道からの影響大きい。排仏思想も共有しているが、吉田・伊勢神道を介して仏教と結びついており、また(密教的な)秘説伝授的側面もある。そうしたこともあって後の国学で批判の対象になる。
 『仏教から自立した神道は、近世以降、(中略)基本的に、<固有>宗教として自己形成していく。その際に、自らの母体である吉田神道を初めとする中世神道説に対して、それが含み持つ仏教的影響を厳しく指弾し、このことによって自らが中世神道より受け継いだ仏教的要素の発見と削除に努めた。(中略)しかし、彼らが信じた<固有>なるものの多くは、実は中世神道説の世界から起こったものだった。たとえば、日本人の道徳的厳選とするような神道理解(中略)は、近世以降特に強調されるが(中略)、両部神道における<内なる神>の発見や吉田神道の心=神観といった、仏教徒の濃密な関係のなかで展開した中世神道説の思惟を前提にしなければ、実は成り立ち得ないのである。』(P283)