カタロニア讃歌

内容紹介

1936年、スペインに成立した左翼系共和政府に対して、右翼勢力はフランコを指導者に反乱を企てた。独・伊のファシズム勢力はこの反乱をバックアップしたが、英・仏は不干渉政策をとった。これがスペイン内乱である。共和政府を支持したのはソ連と、各国から自発的に参加した義勇軍であった。当初記事を書くためスペインを訪れたオーウェルはこの義勇軍に一員として加わり、実際の戦場へ。彼がそこで見たものは……20世紀を代表するルポルタージュの記念碑的作品!
(amazonより)


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 「動物農場」「一九八四年」などで有名な作家ジョージ・オーウェルがスペイン内戦(1936〜39)に義勇兵として参加したときのことを書いたノンフィクション。
 フランコに対抗すべく、外国から多くの人が義勇軍に入った。そして義勇軍には各政党ごとに傘下の義勇軍があって、著者は当初は共産党義勇軍に入ろうとしたが断られて、別の社会主義政党トロツキスト)の義勇軍に入ることになる。
 そうしてPOUM(統一マルキスト労働党)の義勇軍に所属していた。しかし後にソ連のてこ入れで力を増して、影響力が強まる共産党によってPOUMは排除されることになる。その党派は当時共産党により、POUMはプロパガンダフランコの第五列(スパイ)だと吹聴されて、あらぬ罪を着せられて弾圧を受け大量の逮捕者がでた。
 義勇軍で前線に居た時の体験と、当時の政治的情勢についてと、POUMが偶発的な事件の全責任を負わされて政府・共産党による弾圧がなされたことが書かれる。その事件の渦中にいた著者が、共産党の宣伝などによってPOUMは悪名を被せられたが、実際にはどういうことが起こっていたのか自分の体験したところを書いている。

 1936年の12月に著者がこの戦争を取材するためにスペインにやってきたときに(とはいうが、巻末を見ると、最初から義勇軍に入るつもりだったようだが)、バルセロナでは誰もが労働者階級の服を着て、誰に対しても対等な応対をしていた。それを見てとった著者は、その平等で自由な姿は戦って勝ち取る値打ちのあるものだと思った。
 そうして義勇軍へと入った。しかし義勇軍は制服もバラバラ、というか戦闘時に着る丈夫な服を配給しているという感じで、ベルトや弾薬盒といったものでさえ前線行きの列車が出発する直前にようやく配られた。そして兵隊はいても持たせる武器が不足しているという状態で『POUM義勇軍においては、小銃の不足はそれこそ絶望的なほど深刻だった。そのため、前線に赴く新しい部隊は、いつも、そこで交代する部隊から小銃をゆずり受けなければならない始末だった。』(N180あたり)
 義勇軍は将軍と兵も平等であるので給料も同じで、言葉づかいも人によって変える必要はなく、同じ服で同じ食事をとっていた。そして命令もあくまで同士から同士へと伝えられるものであった。そのように『義勇軍の内部に一時的であってもよいから、階級のない社会の生きたモデル、といったものを作ってみよう、という意図が働いていたのだった。』(N540あたり)そのように義勇軍は平等ということを徹底した、一風変わった軍隊でもあった。

 スペインの内戦は、様々な都合でファシズム対デモクラシーの戦いだという風に国外では報道されていたが実際は革命でもあった。
 『ソビエト・ロシアにしり押しされた共産党は、全力をあげて革命を圧殺しようとはかった。この段階での革命は命取りとなるから、今、スペインで成し遂げなければならないのは、労働者による支配ではなくて、ブルジョワ・デモクラシーである、というのが共産党のテーゼだったのだ。』(N1065あたり)スペイン国内では革命が起こったという認識だったが、国外では革命はないと、共産党系の新聞含めて主張していた。
 ソビエトが武器を供給することによって共産党の発言力が強くなる。そしてソビエト連邦の防衛のために革命的な隣国に反対する盟邦であるフランスに配慮して、共産党は革命としないように動く。そのためソビエト共産党は革命を阻止して、ブルジョワ政権(ブルジョワ・デモクラシー)を樹立させようと、アナーキストら革命勢力の排除に尽力した。

 カタロニア義勇軍は内乱勃発答辞に、いろいろな労働組合や政党がそれぞれ作ったものであった。そのため中央政府だけでなく所属する各政党にも義務がある政治組織にも義務を持つ政治組織でもあった。
 しかし後に人民軍を整備することになる。そうした軍の再編成・効率化は義勇軍を解体して、アナーキストが自分たちの軍隊をもてなくさせるものでもあった。『義勇軍は、その民主主義的精神のゆえに、革命的思想の温床となっていたのだった。これがじゅうぶんわかっていたればこそ、共産主義者たちは、あらゆる階級のものに同一の給与を支払うべし、というPOUMやアナーキストたちの根本方針をことあるごとに烈しく非難してやまなかったのだ。全面的な「ブルジョワ化」、つまり、革命の最初数カ月のあいだにみられた平等主義的精神の計画的な撲滅化が起こりつつあった。』(N1160あたり)

 『アナーキスト社会主義者のあいだには、古くからの嫉妬があったし、またマルクス主義者としてのPOUMは、無政府主義に対して懐疑的であった。いっぽう、純粋なアナーキストの立場からみれば、あまり好ましくないという点では、POUMの「トロツキズム」も共産主義者の「スターリニズム」も似たりよったりだった。それにもかかわらず、共産主義の策謀に対抗する必要上、両者は結びつくようになった。POUMが、五月にバルセロナにおける悲惨な市街戦に参加したのは、おもにCNTを援助したい、という本能からであったし、後になってPOUMの弾圧が起こったとき、ただひとり、敢然として擁護の声をあげたのはアナーキストだけだった。』(N1295あたり)元々仲の良い勢力というわけではなかったが、強力な発言力を持つ共産主義者に抵抗すべく両者は接近する。そして、そのためにPOUMが悪玉にされて滅びることになる。

 オーウェルが数ヶ月ぶりにバルセロナに戻ると、かつての労働者階級が支配する町という印象はなくなり、ふつうのブルジョワが幅を利かせる町へと変容していた。
 そして電話交換局で起こった騒動を契機にPOUMは、政府(共産主義者)によって敵認定されて、力を失う。この事件最初はCNTと治安警備隊(政府)との戦闘だった。
 それが起こったときPOUMの人々は所有するビルに集まってきたが、銃が50〜60挺と少数しかなかった。『POUMの幹部たちは、この事件に巻き込まれるのを腹立たしく思いながらも、CNTに味方してやらないわけにはいかない、という気持ちでいるものと私は推測した。』(N2770あたり)そしてオーウェルもそのビルで篭城することになる。
 事件が起こった当初の街の人々の反応は、『「これはアナーキストと警察とのただのけんかさ――何でもないことなんだ」というのが、一般の態度だった。戦闘の規模は小さくないし、負傷者の数も馬鹿にはならないが、この事件を計画的な反乱と見る公式見解よりは、むしろ、こちらのほうが真相に近いような気がする。』(N2885あたり)

 その籠城中に政府がPOUMを非合法化し宣戦布告しようとしているという風聞を聞く、そして政府・共産主義者はこの戦闘の責任をすべてPOUMにひっかぶせようとしていることに気づく。『何しろいちばん弱体の政党だから、いちばん手ごろないけにえになるのだ。』(N2920あたり)
 そして市街戦が終わって共産主義勢力PSUCの宣伝によってバルセロナ市街戦は、POUMによって計画された第五列(スパイ)ファシストの反乱とみなされるようになり、それが公式見解となってしまった。
 このバルセロナ市街戦、多くのプロパガンダに利用されて、その事件を扱った記事などのほとんどは『その十のうち九までが事実に反している。』そのため、その最中にいた人間として自分が見たことを書くことで、一般に流布している嘘に対する反駁としている。

 『紛争は、アナーキストたちに武器の引き渡しを要求する政府の命令がもとで、自然に起こった。』(N3360)英国の新聞で彼らが武器を秘蔵していたために前線に十分な数の銃を遅れなかったと批判している。しかし各政党はどこも(当のPSUCも)武器を隠匿していたことは公然の事実で、実際に馬鹿正直に引き渡したら政治的な主要勢力であるPSUCのみが武器を保持することになることはわかりきっていたし、共産党員たちの多くは『フランコとの戦いに勝ったらすぐに、アナーキストたちの「抹殺」に取りかかるつもりだ、と公言していた。そのような状況のもとで、アナーキストたちが、一九三六年の夏に手に入れた武器をおいそれと引き渡すだろうなんて、むしろ期待するほうが無理だった。』(N3365あたり)
 電話交換局を素直に引き渡さなかったのは、それが明らかな挑発行為であったからである。そしてそれに味方した市民は治安警備隊が好まれていなかったから立ち上がった。
 そのような自然発生的な事件を、共産党系の新聞などはPOUMの計画的な反乱とプロパガンダを流布して、そしてその見方が世界に広まった。
 再び戦場に戻った著者が咽喉を射ち抜かれながら九死に一生を得る。そうこうしているとPOUMへの弾圧が始まり、大量の逮捕者が出て、POUMと関わりのある者は逮捕を怖れなければならなくなった。そのため逃げ隠れしながらスペイン脱出をしければならなくなる。

 解説にあるように『共産党系ではない「統一マルキスト労働党」(POUM)の旗じるしのもとで闘ったオーウェルの側から見れば、この戦いは、結果的には、ナチス・ドイツファシスト・イタリアに支持されたフランコを首班とするファシスト勢力との戦いであったと同時に、スターリン主義者たちに指示され、ある時点から、はっきりと革命の弾圧と圧殺の方向に転じたコミュニストとの闘い(特に後半は)でもある。二重の闘いだったわけだから、スペイン内戦におけるコミュニストの動きを無視するわけにはいかない。』(N5275あたり)