鼠 鈴木商店焼打ち事件

内容(「BOOK」データベースより)

大正年間、大財閥と並び称された鈴木商店は、米価急騰の黒幕とされ米騒動の焼打ちにあった。だが本当に鈴木は買占めを行ったのか?丁寧な取材を経て浮かび上がる、一代で成長を遂げつつも、近代的ビジネスとの間で揺れながら世界恐慌の荒波に消えた企業の姿。そして大番頭・金子直吉の生涯。城山文学の最高傑作。

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 鈴木商店米騒動で冤罪で焼き討ちされた事件を書いたノンフィクション。
 鈴木商店は勢いに乗っていた商社だったが別段高給というわけではなかった。しかし会社の雰囲気がよく、かつて働いていた人々からはいい会社だったと懐かしがられるような会社だった。
 事実に反して鈴木商店は米で暴利を得ているという冤罪で悪玉というイメージを背負わされて、焼き討ちまされる。その創作された奸商鈴木像は少なくともこの本が出るあたりまでは事実と見なされてきた。どうしてそういうことが起こったかについての外的な政治状況、そして鈴木商店の内部事情が書かれている。

 ○鈴木商店の内部事情
 鈴木商店の女主人ヨネは、会社の繁栄は金子直吉と社の人材のおかげだとわかっていたので彼らに経営を任せて、息子たちには経営に興味を持たせないようにしていた。
 そのため鈴木商店金子直吉のワンマン経営であった。金子直吉の判断で物事が進む。
 そして鈴木商店の内部に土佐派(丁稚からのたたき上げの人物など)と高商派(神戸高商や東大・一橋出身者。近代派)があった。とはいっても、米騒動時点ではそこまで派閥的な対立はなく、会社を挙げて渾然一体となっていた。
 高商派を代表する人物が、その能力を見込まれて鈴木の女婿となった高畑である。
 米騒動時点で両派閥の対立が顕在化していなかったのは鈴木商店の名支配人西川文蔵の尽力もあってのことだった。彼は金子直吉と高商派の間に立って、意識的に新旧両者の断絶を埋めようと努力していた。
 金子に若手のホープ高畑が会社を近代化することを求めても、彼は株式会社にするといろんな情報を公開しなければならない、そうして手札を公開することを嫌がった。それに金子は忠臣でもあったので主家を差し置いて自分が社長となれない、すると重臣の一人となるので自分が独断で進められず、合議でやらねばならないのを嫌がった。
 そうして会社の近代化を拒む金子直吉と近代化を求める高畑との対立を西川がとりもっていた。
 高畑には1年目に大失敗した時に親身に慰めてくれた西川に恩義があり、一方西川は西川で直吉に恩があり、そして金子はヨネに恩がある。そして高畑はヨネの女婿で、鈴木と一体化している。そういった連環のなかで、苦労しているのが西川。

 ○金子直吉と政界との関係
 米騒動当時の寺内藩閥内閣の後藤内相が金子直吉と親交があった。そのため内閣を倒すために何でもしようという野党の憲政会やら、大阪朝日新聞によって鈴木が叩かれる。
 その大坂朝日新聞は奸商鈴木のイメージを創作した。
 朝日は二年前に鈴木が第一次大戦中に敵国ドイツ向けに米を輸出しているという記事を書いたが誤報だった。その誤報を認めたが、最初の国賊鈴木のイメージが残った。
 以前に麦粉取引の中で、売り浴びせをして来た三井ら売り手連合に対して買いをした鈴木。結局それで鈴木は大きな儲けを得た。それで売り手側が新聞や憲政会代議士を使って攻撃をしてきたが、鈴木はその悪あがきに反応を示さなかった。しかしその買占めと巨益のイメージと2年前のドイツへと輸出という誤報が、後の米騒動の時に転化されることになる。
 金子直吉との政界との接触。経済行政についての政治家の意見は拙いしので、金子直吉は『気まぐれな、それでいて命にかかわる嵐を避けるためには、政治との絶えざる接触が必要であった。(中略)台湾以来の付き合いで、直吉はその窓口を後藤新平としていたが、だからといって寺内藩閥内閣の後押しをしようとしたわけではなく』(N1435あたり)あくまで経済問題で変なことをしないようにという接触だった。しかし『たまたま直吉が選んだ窓口は、当時の政治社会では、最悪の窓口であった。攻撃の標的とされるのに打ってつけの窓口でもあった。小廻りのきかぬ直吉は、仮に最悪と気付いていても、やはりその窓口を通さずには居られぬ性格であった。/ というより、現実は直吉も西川もその辺の事情をもっと無造作に考えていたようである。』(N1440あたり)
 『直吉が献金するのも「えらい政治家になって日本のために尽くしてくれたら」という極く素朴な天下国家主義から出発していることが多く、露骨な反対給付を期待しない。それだけに政治家とフランクに付き合えたのだが、その一方では、最後のところで政治家を動かす力とならなかった。世間に騒がれる割には、彼は政商に徹しきれない。親しさが目立つだけに帰って世論を刺戟したり、反対等の怨みを買ったりもした。』(N4195あたり)後藤内相など政治家との付き合いで特別利益を得ようとしていないからこそ親しかった。だが。その親しさから米騒動の時のような捏造によるバッシングの対象となった。

 ○米騒動時の鈴木商店の実際の行動と外部の情勢
 米騒動の時に鈴木が実際に行っていたこと。それは政府からの依頼で鈴木商店は朝鮮米を移入してきて、安値で内地で売っていた。一石ごとにいくらかの手数料があるだけで損はしないが、他の用途で船を使ったほうが儲けは断然大きいものだった。
 その依頼を自由にでき船が国内で一番多く後藤と親しかったことで、鈴木商店が担うことになった。つまり国内混乱を収めるため薄利でその仕事をしている。
 しかし鈴木がその仕事で暴利を貪っていると自ら創作することの虚構の事実に憤る大阪朝日。そうした印象操作で鈴木焦点を悪玉に仕立て上げる。同時期の大阪毎日はそうした理不尽な鈴木焦点叩きはしていない。
 徹底的な大阪朝日の攻撃だったが、世間には新聞を軽んずる傾向がこの時あり、鈴木社員も気にしていなかった。危険性に気付いた西川は大阪朝日に誤報の訂正を求めるもそれは容れられず、直吉の政治力で対処することを求めたが、直吉は悪いことをやっていないのだからそうした対処をする必要がないと思って、無視する姿勢をとっていた。
 その頃直吉は鉄問題での大仕事をしていた。
 当時、世界大戦による世界的鉄不足で米国が鉄の禁輸をした。米国の鉄に依存していた日本には死活問題だった。船不足でもあったので、船を多く売るかわりにその対価を鉄でもらうという契約を金子直吉が取り付ける。そうして日本重工業の危機を救った。 直吉は大阪朝日の攻撃の頃、この大交渉をまとめていたので、大阪の一新聞のバッシングを気にかけていなかった。
 そうして正しい、疚しくないからと意固地になったように何も手を打とうとしない金子。
 そうして大阪朝日によって悪玉にされて、追いつめられた民衆のはけ口にされそうという状況で、何も手を打たなかった。そのため結局現状への不満が爆発して、悪玉にされていた鈴木商店が焼き討ちされる結果となった。

 ○そして焼打ち後
 しかし鈴木の事件あって米騒動の報道禁止令がだされた。それに反対する大阪朝日の記事で、意識してか否か「白い虹日を貫けり」という故事を使ったが、それは革命の前兆を意味するものでもあった。失態を待っていた当局は大阪朝日新聞を朝憲紊乱で告発し、不敬罪も適用しようという構えを見せた。
 それに裁判所も極刑で臨む姿勢を見せて、発行停止をにおわせた。裁判中に寺内藩閥内閣が終わり、平民宰相原敬が首相となる。政友会内閣となったが寺内・山県と組んでいた政友会はさんざん攻撃されたので、朝日新聞に対しては前内閣の方針を踏襲する構えを見せた。
 そのことで大阪朝日は社長と論説関係者全員が退社することになった。
 このことで大正デモクラシーでの言論の自由が後退。大阪朝日の捏造を交えた報道を掣肘するための朝憲紊乱と不敬罪。このことが原敬にその線で取り締まりを強化することを考えつかせた。そうした考えがやがて治安維持法へと至る。
 結局大阪朝日の行き過ぎた言動、バッシングが結局言論の自由を狭めることにつながってしまった。
 そして鈴木商店の金子ワンマン体制、そして鈴木商店は御存じのとおり関東大震災で崩壊することになる。そして最後金子の失意の晩年などが書かれる。