繁栄と衰退と

繁栄と衰退と: オランダ史に日本が見える

繁栄と衰退と: オランダ史に日本が見える

 オランダの歴史について書かれた本。以前から読みたいと思っていたので、復刊したのを契機に読了。
 オランダは大いに繁栄したものの、地方分権で国として意思を統一するのが難しかったことや、また中央集権をかたくなに拒むブルジョア政治家が総督や軍の影響をできるだけ弱めようとしていたことが原因となり、衰退することになる。
 刊行された四半世紀前の日本の状況には、17世紀のオランダの繁栄し衰退した歴史と通じる問題点がある。その問題点をオランダの歴史を見ることで、現在の日本の状況を反省するといった感じ。
 軍事的安全保障的には同盟国に頼りながら、不誠実な振る舞いをして、経済的に一人勝ちして、同盟国の財政を圧迫していた。スペインという大脅威がなくなってその不均衡、不条理が強く感じられるようになる。その状況が嫉妬を招き、戦争に至り、オランダは衰退することになる。
 オランダのその姿は冷戦後の日米の関係、バブルだった日本と日本バッシングと重なる部分が多い。

 1906年刊のバーカー『オランダの興亡』、モトリー(P27)のオランダ史、著者自身の言葉で書きおろそうにも文献が少なく、結局その二つの本の受け売りになってしまうため『この二つの原著を引用しつつ、それに対する私の個人的コメントをつける形でオランダ史を紹介するのが、読者の便宜のためにも私自身の知的正直さのためにも正攻法であると思う。ついては今後、とくに断っていない引用はバーカーあるいはモトリーに拠っているとお考えいただきたい。』(P30)

 15世紀当時、バルティック貿易は『現在で言えばドイツ、ポーランド、ロシア、北欧を含む、広大な北部、東部、中部ヨーロッパ全域の独占貿易を意味していた。』(P39)そのためそこに食い込もうとしたオランダ商人をハンザ同盟は武力で阻止しようとした。そこで『オランダ人は、どんなに優れた商人でも、武力を持たないかぎり商売も富も得られないことを覚り』(P39)、そこからオランダの政府と貿易の結びつきという伝統が生まれた。オランダは英仏が重商主義に目覚める二百年前から産業、貿易の発展を政府が援助していた。それで経済発展をしたが、同時に嫉視を招く要因ともなった。
 ハンザの独占を破ったオランダは発展していく。
 版図を大きく広げたが、同時に多くの戦費の負担を強いたブルゴーニュ公シャルル勇胆公が死んだとき、その娘マリーを継承者として認める代わりにネーデルラント各州は「大特権」を獲得した。その大特権が意図するところはマグナ・カルタとあまり変わらない。しかし各州の完全な主権を守って、中央政府の権限を制限しようとしているところが大きく違っていた。
 婚姻によってスペイン王支配下にはいったネーデルラント。しかし継承にあたって、各都市で互いの権利と義務を確認せねばならず、それで得られるのも王が正しい行いをする限り、その命令に従うという約束だった。そこで彼らに同格のようにふるまわれたり、ローマ教会に反対することをされた。それがスペイン育ちの王フィリップにとっては屈辱的だった。
 そしてネーデルラントとの異端迫害が起こる。
 その暴政を見たオレンジ公ウィリアムが立ちあがる。彼はオランダ統治について王に深く信頼されていた人物だったが、そのあまりのスペインの苛政を見て、自らの家産を売り払って資金を調達して反乱をおこす。
 スペインの精鋭軍に対して、最初は中々戦果をあげることはできなかった。そうしたウィリアムの悪戦苦闘の間、当の国民が根深い個人主義で団結できず、またスペイン軍の力と恐怖に金縛りにあって中々立てずにいた。
 しかし一部の人間による私掠船の活躍で、デン・ブリルを占領したことをきっかけに叛乱は一気に広がりを見せて、多くの町がスペイン軍から解放されることになる。そこから今まで二の足を踏んでいた外国もウィリアムへ援助をするようになった。
 そしてネーデルラント北部(オランダ)をウィリアム陣営が保持し、南部(ベルギー)をスペインが領有しているという状況になって膠着した。
 そしてスペインがウィリアムの暗殺に報奨金を出すことを布告したことで決別して、正式に北部州連合はスペインを離脱する。そして暗殺は幾度かの失敗の後に、1584年になされ、ウィリアムは死亡した。
 アントワープをめぐる攻防で、英国はオランダ側にたって参戦し、この時に無敵艦隊の壊滅が起こる。そして二代目総督のマウリッツの活躍もあって、スペイン軍をオランダ領から駆逐し、ほとんど現在のオランダ領をその支配下におさめることになる。
 その後スペインの陸での敵はフランス、海では英国となったことで、オランダはスペインと貿易ができるようになる。そして1590-1598年に大いに海運、貿易が発展した。当時ヨーロッパ外との貿易はスペインが独占していたので、スペイン貿易ができるようになったのは非常に大きなことだった。
 フランス王がカソリックに改宗して、ナントの勅令を出す。そのことでフランス介入の口実を失ったスペインにとって、ふたたびオランダが仮想敵国になり、再び貿易を止める。
 しかしオランダはそれまでの貿易もあって海軍力が大きく成長していたたので、そのスペインとの貿易が止まったのをきっかけにヨーロッパ外へと進出していくことになる。そして東インド会社が設立されたり、日本との貿易が始まる。スペインは世界の海におけるオランダとの海戦での損失が大きく、1609年には休戦がなる。そのように大国のスペインを脅かす存在となっていた。
 その1609年にはオランダの人口は350万人となり、それは英国と同じくらいだった。
 各国の関心が安全保障と宗教にあった時代に、いち早く経済政策に目覚めていたオランダは繁栄を享受していた。

 オランダの『地方自治主義が、オランダの外交、防衛政策の一貫性を妨げ、オランダ帝国衰亡の主因となったことは、バーカーだけでなく誰もが認める客観的な事実のようである。』(P135)

 非常に有能な世襲総督家の2代目のマウリッツ公が国民の信望を集めていた。オランダの中心州で経済力・発言力が他と隔絶しているホラント州のブルジョア政治家と、オレンジ家との間での確執が始まる。オレンジ派(国民統一派)は貴族や一般民衆の支持を受けて、地方自治派は各州のブルジョアの支持を受ける。
 オレンジ家は代々優秀な人物が継いでいて、初代以来公のために滅私する伝統もある。しかし地方分権派は国家利益ではなく、地方利益のための政策論を述べる。そのため『公平に見てオランダ衰退の原因となったのは、ホラント州を中心とする地方分権派の罪に帰すべきところが大きいといえる。』(P145)
 例えばオランダ全体の利益でいえば戦争を継続しスペイン領ネーデルラント(元ベルギー)のブラバントとフランドルを併合したほうが断然得であったが、アントワープをとると、競争相手となるホラント州とアムステルダムの利益や発言力が減る。そのために領土をとらない代わりに競争相手をアントワープを封殺するという休戦条約がなることになった。
 その後も地方分権的な制度そのものが改正されなかったので、この構造の歪みは後々まで残る。
 そして外交的な一貫性を欠いて、その場の利益やホラント州の地方利益を優先した行動に引きずられた行動をとることがままあったし、共通の敵と交易して利益を上げていた。そのような不誠実な行いの積み重ねがあってオランダは国際的な信用を失っていく。
 1618-48年の三十年戦争といった国際的な政情不安と動乱に助けられて、そうした各国が軍事安全保障が最優先であったこともあって、オランダはぬくぬくと繁栄を享受できていた。
 『英蘭両国は旧教国スペインの脅威に対して、運命共同体として共同で立ち向かってきた。』(P16)しかし三十年戦争終結で、スペインとローマ教会の脅威が去った。そのイデオロギー対立が終わった時に、経済的な摩擦が目に映る。
 スペインという現実的な脅威が眼前にあったからこそ、不実な同盟者としての立ち位置で、利益をむさぼることができていた。
 オランダは利潤のない陸上戦闘を同盟国にまかせて、海上勢力を充実させた。そのため陸上勢力は極めて弱く少勢であった。
 英国人は自分たちのための戦いすら体を張らず、他国人に戦ってもらっている国が富を集めているのは正しいことなのかと疑問に思う。
 クロムウェル政権の英国で、議会は対蘭強硬論を支持していた。しかしクロムウェルプロテスタント共和国同士の友好協力関係を強固にしようとする。それで『より緊密な同盟と連合』を達成しようとし提案した英国側に対して、オランダ側は経済的利益を自分たちが得られるような対案を提出。
 経済的に摩擦はあれど、その他の事情も考えて、政治的な運命共同体として英国との関係を良好にしておいたほうがオランダにとってよかったが、全く英国の事情を勘案しない対案を出す。そして英国は航海条例を発布して、英国とその属領の市場からオランダを締め出しにかかった。
 オレンジ家や軍が力を持って、各州の自治権や発言力が低下し、中央集権化するのを恐れたブルジョア政治家たちは事態を甘く見て、戦争の準備を引き延ばし、そして両者のパワーバランスから強硬な要求を押しつけられることにつながり、戦争がはじまると戦備不足に泣くことになった。
 地政学的にも一番怒らせたらいけない相手だった英国を怒らせて、英蘭戦争が始まる。そして第一次英蘭戦争では、同じプロテスタント国であるオランダに甘いクロムウェルの権力が確固としたものになっていたこともあり、オランダは大敗しながらも寛大な(オランダに甘い)平和条約を手に入れる。
 そうしたこともあって第一次英蘭戦争後も再びオランダは繁栄を享受していた。第二次英蘭戦争もほぼ同様な経過で発生し、そしてこの戦争でオランダの海上覇権は失われ、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンへと移っていく。
 フランスでも1648年に、オランダがスペインと単独和平をした配信もあって、反オランダの感情が強かった。そして仏蘭戦争で大敗し、民のブルジョア政治家への怒りが爆発。彼らへの市民の反乱が起こる。そして長らく空位であった総督の座に、オレンジ公ウィリアム三世を迎える。
 そしてウィリアム公の活躍もあって、なんとか国の窮地をしのぎ切った。それでも反蘭のムードは残ったが、ウィリアムが後に名誉革命で英国王となって、英仏抗争の時代に入ったことで、再び英国とオランダは同盟国となる。そしてその後のオランダは英国との友好関係を安全保障の基本として今日にいたる。