「城取り」の軍事学


内容(「BOOK」データベースより)

「城は山城から平城へと発展した」、「城は領内統治のための権威の象徴」、「城は単純で小さな形態から複雑で巨大なものへと進化する」…。こうした通説を、民間学とした発展した「縄張り」分析の手法と、軍事学の視点をもって打破する。そこに現れるのは、戦争という「一回性の状況」を映し出した千差万別の個性ある城たちであった。


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 城という個性的な存在をその個々がどういう目的でそのような城の形態になったのかが説明される。
 タイトルにある城取り、城を取るという言葉が戦国時代の文書などにでてきたら、それは城を攻め取るという意味ではなくて、新たに城を築くことを意味していた。場所を取る、陣取りと同様の用法。
 100人で守るのと1000人で守るのでは同じ場所でも城の取り方が変わってくるし、その部隊の編成や錬度でもまた変わる。『このように、城を築いた人間が「どう守りたいか」という防禦プランを地面に刻みつけたものが、城の縄張りなのである。したがって、縄張りを的確に把握して読み解くことができれば、築城者の意図を通してその背後にある「城を守るための具体的条件」を見透かすことができるはずであり、ひいてはその城が築かれる前提となった戦略的状況を理解できるだろう。これが、縄張り研究の基本的な考え方だ。』(N315あたり)この本では実際の城跡を例にとって、その城をどのように守ろうとしていたか、その工夫や意図などを読み取って、そのことが書かれている。
 山城のメリット、広い視野が得られるため早期に敵を発見でき、また敵の部隊がどう展開するかが見えるため的確な防御側の配置ができる。また、敵部隊は攻める前に山に登る必要があり、それで消耗させることができるし、当然武器も高所から使った方が優位となる。

 山城といっても比高100メートルを大きく超えないものが結構多い。山城を築く山は高ければ高いほどいいというわけではない。高すぎる山だと補給に不便だったりする。そのため手頃な高さの山を選んで築いている。その山は高さの割に険しい、傾斜が急な山で、そうした山の方を登るほうが高いが緩やかな山を登るよりも大変なので、そうした山が選ばれている。
 そして比高の高い山だと補給の不便があるため小さな城が多く、大きめの山城は低い山にある。

 山城、攻める側が不利なのに何故スルーをしないのか。に交通の要所を遮断している城は攻め込む側は当然スルーできない。街道や集落を見下ろすような山城の場合は、スルーすると伝令や補給部隊を襲われる危険性、さらに土地鑑のある城兵に宿営地に夜襲をしかけられる可能性がある。そうしたゲリラ的行動を許すことになり、侵攻軍の行動を制限することにつながる。
 『要するに、侵攻軍にとって城そのものより、そこに温存される兵力が問題となってくるのだ。したがって侵攻軍は、侵攻経路の近くに敵の城(側面陣地)があれば、出血覚悟で攻略するか、相応の兵力を割いて城兵を封じ込めてしまわなければ、後方連絡線を確保して自由に行動を続けることができなくなる。』(N855あたり)
 城兵封じ込めのために一部兵力を割くことも、それが『五か所、六ヶ所となったら、封鎖舞台に兵力が取られて主力の野戦軍がやせ細ってしまう。これではやはり行動が大きく制約されることになるし、どこか一か所でも抑えが利かなくなったら、前軍が一気に混乱しかねない。どちらにせよ侵攻軍にとっては迷惑な話だが、裏を返せば相手に時間や兵力を消耗させたり、兵力分割を余儀なくさせるなどの不本意な兵力運用を強いるところに、城の存在価値があるともいえる。』(N866あたり)
 城主と城将。城主は自分の所領に自分の城を持っている人。城将は大名領国などの城の守護を任せられた責任者のことで、城兵には同じ主君に務める他の武将もいる。後方から派遣されてきた部隊が前線の城を守護するが大変なので、負担軽減のため交代して任務についた。
 城将が派遣されてくる城のような決まった城主のいない城も多い。そういう城を持っているのは大名だろうけど、当然住んではいない。全ての城に城主がいるというわけではないのだが、そういう先入観もあって近くの小領主などをその城主だとしてしまうことが多いようだ。
 戦国武将が普段は麓の館で生活しても、戦いになると山上の詰城にこもるというイメージ。実際には麓の館と山上の城というセットはほとんど見当たらない。上杉謙信春日山城という比高150メートルの山城に居住し、織田信長岐阜城(比高320メートル)や安土城(比高110メートル)で生活していたし、浅井長政小谷城という比高250メートルの山城で暮らしていた。
 『つまり、戦国武将の中には、不便を忍んであえて山の上に居住しているものも、「平時の居館と戦時の詰城」を分けずに丘城に住んでいるものも大勢いたことになる。』(N1526あたり)
 掘と土塁に囲まれた領主屋敷である方形館は実際にはない。『中世の最初から戦国時代まで、領主たちはずっと垣根や溝で囲まれた程度の、戦闘には到底堪えない造りの屋敷に住み続けていたのであり、それは最下層の土豪クラスであろうと、国内屈指の有力領主であろうと、戦国大名重臣であろうと基本的には同じだった。』(N1650あたり)
 『大多数の領主たちは、自分の屋敷を舞台に戦争をするつもりなどなかったのである。(中略)彼らが武力を行使すべき場所は、守護や官僚、戦国大名などの上級権力に動員されて赴く戦場だった。』(N1661あたり)
 それでは方形館とされていたものは何かというと、実際は城であり、山や丘のない平地での防禦陣地。
 城の解説。青山城の解説で、南西の曲輪に厳重な防御を施しているのはその方向からの敵に対処しているからで、南東の曲輪は南西の尾根から攻めてくる敵が攻めあぐねて別動隊を出して来た時に対処するために防禦を施している。その南東の曲輪が単純な構造なのは戦力の余裕がなく槍主体で単純な動作で守るつもりだからで、北の尾根を掘切で遮断していないのは守りきれないとなったらそこから脱出する予定だった。そうしたことが推測できるということが書かれていて、そうした詳細などういうつもりで設計しているかを解説してくれているのはありがたいし、読んでいて面白い。
 城は地元の小領主が築いたものはあまりなく、戦国大名のような大きな勢力がその防衛戦略のために、あるいは時々の必要に応じて築いたものが多い。『作戦の中で生じた具体的な理由によって築かれる城は、どのくらいの戦力でどのような任務を果たすか、という条件が最初から決まっている。具体的条件に従って地形を取り、城を築いてゆくから、縄張りも個別具体的なものとなる。』(N2320あたり)
 『縄張りとは築城者がその場所を「どう守るか」という防禦プランを、地面に刻みつけたものだ。有力大名が持っている縄張りの癖とは、このドクトリンを具現化して地面に刻みつけたものではなかろうか。』(N2610あたり)。
 しかし領内で全部同じ傾向をもつわけではない。例えば檜原城のように、いざというときに民兵がそこに入って守る城は、彼らは当然高度な戦術動作は取れないので、素朴なつくりとなっている。
 侍たちの一騎駆けという行動は『軍事史的観点から見るならば、浸透戦術の原理を体現している、といってよい。』(N2925あたり)そして『戦国時代における城の攻防戦は、攻撃側の強襲を選択してそれが成功すれば、ほぼ例外なくその日のうちに決着を見ている。/ 反対に、初日の強襲がとん挫すると、そのまま長期の攻囲戦に移行するのが普通だ。攻囲軍は、いったん城から距離を取らないと、城兵が逆襲を仕掛けてきた場合に対処できなくなるからだ。なにせ、地の利は城側にある。そこで、工場側は城側を取り囲むように陣地を築いて逆襲に備えながら、バリケードを連ねたり塹壕を掘ったりして城に接近し、突入口を形成してゆく。そして、十分城に接近したら、最後はやはり強襲によって突入することになる。』(N2930あたり)
 城は軍隊の兵種別編成化に対応して変化していった。
 アイヌのチャシという城は、小さく縄張りも簡素。しかし行われる戦闘は首長同士の抗争で交易で得た宝を保全するためのもので、規模もせいぜい数十人と小規模。その時のために、首長らの家と手下たちと守るためのものなので小さくても目的に適った実用的な防御施設。
 『戦国時代に築かれた何万もの城のほとんどは、あくまで戦闘に際して敵に出血を強要することを最優先に設計された、純然たる戦闘施設だったのであり、地域の拠点と考えられてきた城ですら、しばしば同様であった。』(N3285あたり)
 縄張りを見ても戦国時代の城には、避難して来た民衆を収容する場所はほぼない。城下町は軍隊は消費者集団だから、商工業者にとってビジネスチャンスであり、城がつくられる場所は交通の要所だから、自然と人が集まる。