夢十夜

内容紹介

明治期の文学者、夏目漱石の短編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1908(明治41)年]。「第一夜」から「第十夜」までの夢が幻想的で詩的に構成される。十編のうち四編は「こんな夢を見た」と、目覚めた視点から夢の記憶を語り始める。時代という外界に向きあってきた漱石が「夢」というかたちを借りて、自己の深みにある罪悪感や不安に現実感を与えた小説であり、荒正人は第三夜の夢を父親殺しと解釈した。
(amazon より引用)


 青空文庫で読了。見た夢の内容だけを書いた作品で第一夜から第十夜まであって、各夜それぞれ数ページほどの短さで終わる。いかにも夢らしい幻想的な、不思議なことを不思議と思わず当然に受け入れているような世界観。夢を小説らしくしようとせずに、夢を夢らしいままに書き綴っているのは面白い。
 ただ、個人的にはもっと以前に読んでいた方が楽しめたかなあという作品。昔はよくわからないものを雰囲気で楽しめたけど、最近はストーリーがちゃんとあるものの方が楽しめるようになった分、理解できずとも面白いと感じるような感受性がめっきり鈍ってしまっている。
 こういう意味ではないかとかあれこれ考えることができれば面白いんだろうなと思う。有名な小説だから、多分各夜の夢についての解釈もいろいろなされているだろうから、そうした夢についての解釈的なものがちょっと読みたくなる。そうした評論とか人の解釈とかについて読みたくなる作品だ。
 「第三夜」自分の子だという思いがあって目の潰れた6つの童を背負っていて、その子と会話しながら歩いていく。そしてとある所に差し掛かると童の口から、100年前にこの場所で殺されたとその子が述べて、はっとその出来事を思い出す。そうしたちょっと不気味な第三夜の物語がなんか印象に残った。
 「第四話」ある爺さんが手拭の周りで笛を吹いて、こうしておくと蛇になるといって歩きだし、蛇になるのが見たいから子供の時分はついていく。『今になる、蛇になる、/きっとなる、笛が鳴る』などと唄いながら、そのまま河の中へと入りはじめる。そのまま河の中を歩いて行くと深くなっていくから、腰や胸が見えなくなってもまだ唄いながら歩み続け、頭も見えなくなるまでになる。そのまま向こう岸に上がって、蛇を見せてくれるだろうと思ってまっていたが現れなかった。これもなんかいいね。
 「第七夜」どこにいくのかいつ到着するのかもわからない船に乗っている自分。死ぬことを決心して、海の中へと飛び込んだが、その途端に後悔がわいてきて『どこへ行くんだかわからない船でも、やっぱり乗っている方がよかった』と思うが、すでに飛び込んでしまっているのでその後悔をいかせない。これは比較的分かりやすい。社会への違和、でもそんな中でも生きるしかないという単純な解釈ができる。
 第八夜と第十夜では、ともに庄太郎という人物が登場するけどモデルが居るのか、それとも二つの夢になんかのつながりあるのかどっちだろう。