カペー朝 フランス王朝史1

カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)

カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)

「時間を超えた逆転劇」、それが、冴えない始祖、ユーグ・カペーが頭の中で描いていたことなのか?「名ばかりの王」から300年の時を経て、ローマ教皇神聖ローマ皇帝と並ぶ権力者としてヨーロッパに君臨するまでの物語。

 kindleで読了。
 各代の王の事跡を見ながら、カペー朝の歴史を追う。各王がどういう人物で、その王の代での勢力の増減などが簡潔に記されている。その他の伯と大差のない、力の弱い王からスタートして、いかに強大な力を持つ王家へと成長したかのが書かれている。その王家の物語という軸がしっかりしていて、他の諸侯の話やその時代の話などを最小限にとどめていて、ごちゃごちゃとしていないので、フランスの歴史に詳しくなくても読みやすくなっている。
 冒頭では西フランク王国の有力者であったがロベール家が指導力を高めていき、やがて王家になるまでが書かれる。
 877年に即位したルイ二世が2年で崩御し、その息子で彼の跡を襲ったルイ三世も882年に逝去し、弟の駆るロマンも884年に亡くなる。そうして短命政権が続くと国政が安定せず、敵の侵入への対処もままならない。そこで、そのころの東フランク王国の君主カール三世がイタリア征服し、皇帝位を手に入れた人物に西フランク王国の統治者になってもらう。当時フランク王国のルイ一世によって王国が息子たちに分割した843年のヴェルダン条約から、50年も経っていなかったということもあって、そのような形での再統合がなされた。
 しかしそのカール一世も888年に死亡した。そこで王国有力者の総意で、パリ伯ウードが王となった。『その即位時代は一種のクー・デタ』だが、パリ籠城戦やノルマン人撃退の武功があって『王国の実質的な指導者と見なされるようになっていた』(P190あたり)ことで王位につく。しかしルイ吃音王の三男シャルルがいたので、彼も王であることを宣言した。両者は4年戦ったあとに、子供なく死亡した場合はシャルルに王位を継がせるということで合意し、898年に彼が没した後シャルル三世となる。
 そしてクー・デタ的に即位したウードが没した後、ウードの弟ロベールにネウストリア侯の地位が安堵された。そのロベールもシャルル王の失敗による王国貴族の蜂起で一度は王に即位するも戦死する。しかしカロリング王朝の再興となならずロベールの娘婿ブルゴーニュ公ラウルが即位する。
 ロベールの息子でロベール家を継いだ息子のユーグは、『自らは表に出ることなくして、権力固めを着々と進めた。』(N215あたり)そうして隠然たる王国の実力者となったユーグは、936年に王が後継者なきままに死亡した時には次代の王を誰にするかが彼の意向次第で決まるというくらいだったが、そのときイングランデへ亡命中だったシャルル三世の息子を新たな王として迎えた。彼は王位を望めば手に入れる機会が幾度かあっても、それを望まなかった。彼の死後息子のユーグ・カペーもその路線を取っていた、しかし再び王が後継者なくして死亡した際の諸侯会議でユーグ・カペーが王になった。ここから直系だけで300年、傍系含めればブルボン朝まで800年続いた王朝が始まる。
 即位の際の聖油『ユーグ・カペーは王家の血を受け継いだことではなく、その伝統である聖別を授けられたことによって、正当の王たることを主張できたのである。』(P265)
 大ユーグは王にならずに陰の実力者であったほうが利巧として王になることを拒んでいたが、その息子ユーグ・カペーが王になる。
 王とはいうもののロベール家は他の伯と比べて有力というくらいで、他を圧することのできる実力はない。当時のヨーロッパ封建制は『ほうっておけば、ばらばらの小国に分かれていってしまうものを、一方を封主とし、他方を封臣として、相互に主従関係を取り結ぶことで、なんとかつなぎとめておこうというのが、封建制の素顔なのである。』(N325あたり)
 そのように力が弱いので内実は名誉はあるが面倒ごとが多い立場だった。しかも大ユーグの死後に離反が相次いでロベール家は勢力を減じていたので、王となったユーグ・カペーはなおさら大変だった
 生前に息子を共同統治者としておくことで、王位が代々と子孫に継がれていくことになる。各代の王の人物像と性向を簡単に紹介して、その事跡を辿りながら勢力の増減が語られ、それから王位の継承について書かれる。つねにその時代の王を中心に語って、その王の性向も簡潔に説明しているということもあって各王の印象ぼやけなくていい。
 プランタジュネ家、イングランド王にしてフランス王家よりもフランスに多くの領土を持っていた領主。この「アンジュー帝国」に脅威を覚えた多くの領主は、団結するための旗頭として王であるカペー家の求心力が高まる。
 『フィリップ二世が熱心に取り組んだのが、自治都市との連携だった。国王証書で自治権を認め、都市に封建領主相当の法人格を与えながら、自らとの間に一種の主従関係を結ばせる政策だが、これを熱心に推し進めたのが、フランドル伯領、シャンパーニュ伯領という領邦においてだったのだ。
 いいかえれば、フィリップは他人が治める土地に手を出した。いや、領内にあっても都市は単なる不動産ではないだろうと、法人格なのだから誰と結ぶのも勝手だろうと、そういう理屈で諸侯たちの勢力圏を寝食し、その実力をそごうとしたわけである。』(N1430あたり)少なくともフランスでは自治都市ってそういう理屈と意図があって作られていったものなのか、面白い。
 フィリップ四世、対立していたとはいえローマ教皇を拉致しようとして、その教皇が憤死した後に立った教皇アヴィニョンに移ってもらったという行為を見ると、テンプル騎士団が溜め込んでいる財貨を目的に彼らを異端として一斉逮捕させるという行動にも、この王ならばと納得することができた。まあ、他にもテンプル騎士団修道院だが騎士団だから、武装集団で、そのパリの右岸にある本部は僧院といいつつも実際は城砦であるという脅威も排除の理由があったようだが。
 カペー朝の各王、在位期間が長い人物が多く、そのことが安定と王家の勢力拡大に大いに益した。しかし最後に短命政権が続いて直系断絶して、摂政をと務めたヴァロワ伯フィリップ(フィリップ三世の孫)がフィリップ六世として即位してヴァロワ朝へと変わる。