警察回り

警察回り 本田靖春全作品集

警察回り 本田靖春全作品集

内容紹介

昭和30年代前半、読売新聞記者として下町の警察回りをしていた著者の回顧録。上野署の裏手にあったトリスバーのママ「バアさん」をめぐる物語、朝日新聞の名文家・深代惇郎との交友、献血制度を変えさせる原動力となった「黄色い血キャンペーン」の舞台裏など、著者と仲間の記者たちが生き生きと仕事としている姿が描かれている。新聞が新聞らしくメディアとして機能し、記者が記者らしく働くことができた時代の「貴重な記録」。 【解説:後藤正治

 kindleで読了。
 著者たち新聞記者が昔からバアさんと呼びながらも慕っていた新井素子(呉素娥)さんの死から物語は始まる。彼女の店「素娥」で過ごした著者たちの記者としての新人の頃に警察回りをしていた時期の記者としての仕事の話と、「素娥」に集っていた記者クラブの新聞記者たちの話、素娥という店での思い出、その店主で台湾出身の新井素子さんの人生の物語が書かれる。そのように素娥のバアさんを軸に著者の新聞記者として駆け出しの時代が書かれる。
 新井素子さんと親しかった深代氏が彼女に言った『素娥は昭和三十年代の記者達の青春がいっぱい詰まっていて、オーバーにいえば新聞紙の一頁くらいにはなるかもしれない。』(N285あたり)という言葉。それからもわかるように、著者は本書で素娥を中心に当時の新聞記者達の青春時代、警察回りにとってはいい時代で、良くも悪くも無頼的だったその当時の記者たちの姿を書いている。

 バアさんが死後のことの一切を著者に託したほど親しい間柄だった。
 バアさんは『動物的嗅覚に近い人物鑑定能力に加えて、たぐいまれな親和力に恵まれていた。知り合った相手がだれであろうと、物怖じせず、たちまちのうちに懐深く入り込んでしまう。もっとも、その人物が彼女の眼鏡にかなえばの話であるが。
 そういうふうだから、人との付き合いの面で押し付けがましく、無遠慮なところがあった。』(N95あたり)しかし、それと同時に『どこかあぶなっかしい面を併せ持っていて、周囲はつい彼女を放っておけない気分にさせられる――彼女はそういった類の女性であった』(N544)。それに彼女はいささか見栄っ張りだが、人がよく、天真爛漫で信心深く、世話焼きでとても誠実な人間でもある。
 警視庁は東京二十三区を七方面に分けていて、その七方面の各地区についている記者が警察回りと呼ばれる。その方面の警察署の記者クラブに詰めているので、警察回り。その警察回りは若手が配置されていた。
 当時の新聞社の給与水準は群を抜いて高く、それに加えて警察回りは交通費も名目上払われるが実際の移動は社の車を使うので各自の収入になり、電話代も払われるが警察署の電話がただで使わせてもらえたので個人の収入になった。更に持ち場で殺人などの大事件が起こると張り込み代の手当てがあり、そして『区版にちょっと目を惹く街の話題を連載で書いたりすると、警察回り本来の仕事ではないと言うので、デスクが奨励の意味を込めて取材費の伝票を切ってくれた。』(N400)そのように何か名目がつけば金を払ってくれていた。
 当時著者らが二十代前半くらいだからといって、当時36歳だった女性のことをバアさんはひどいわ。
 偶然著者と同僚が素娥に入る、そこから素娥は記者のたまり場となっていた。記者達は羽振り自体は良かったのだが、この店では記者達はつけにすることができて、他の場所で散財していた。もともと良心的な商売をしているのに、記者達ががんがんつけをためて、中々払わないから経営が苦しくなった。
 警察回りをしていた頃の仕事の話、警察署と記者との関係などが書かれている。警察署内の記者クラブで賭け麻雀を堂々と当然のようにしていたというのは呆れる。
 それを近所の家の人が見えて、連日しているのを見て取り締まりを迫った。それでその窓にカーテンを引いて見えないようにした。そのようなところからもわかるように当時は記者が警察に異様に上から出れた。それと同時に警察署を自由に動き回ることもできたようだ。
 黄色い血。山谷の売血を続けると健康を損なって、仕事につけなくなり、売血するしかなくなる。そうした悪循環にはまってしまい抜け出せない人々を見た著者。それをれぽしても遠い世界の出来事と受け取られた。
 売血業者が限られた人間から頻繁に採血を続けたことから、その人々に血清肝炎が蔓延し、受血者に血清肝炎がうつることも多かった。そうした他人事では済まされない事態を書くことで、著者は汚れた売血をなくそうという黄色い血追放キャンペーンを仕掛けた。
 当初厚生省の担当者は売血をなくすことで、外科手術ができなくなるのではないかと思って不賛成だった。専門家も献血の割合は増やせても、売血なしで済ますのは不可能だと考えていた。しかし5年にわたる黄色い血追放のキャンペーンが売血を不要にした。1969年に売血は消滅し、1974年に預血も終了する。そして保存血液の献血100パーセントが達成された。
 著者とともにバアさんのお気に入りであった深代氏について書いたバアさんの手記いいね。
 記者達が来るようになってから三年ちょっとで素娥は閉店となったが、その後も記者達が「素娥の会」というのを作ってバアさんやそこに入り浸っていたなじみの記者達が顔を合わせる機会を設けるようにした。
 生母は日本人だといっていたバアさんだが、実際は両親ともに台湾人で父は華僑系、母は台湾の山の方の人。そのことを知った著者は遺骨を台湾に埋めようとする。しかし実際に後戻りできない段にいたって、心底日本人となっていたのではないかと悩む。