原色の戦後史

内容(「BOOK」データベースより)

その頃、日本の子どもらは空腹をかかえて赤バットの川上野球に熱中し、大人たちは食糧買出しに追われていた。主婦もまじった「米よこせデモ」の一隊は皇居内に進入し、天皇一家の台所公開を迫っていた。貧しいながらエネルギーにあふれて生きいきとした庶民の体験を、占領軍・天皇・民衆の三極構造で描く。


 kindleで読了。敗戦直後の混乱期の市井の人々の生活を描いたようなものを読みたいと思っていて、この本はもしかしたらそうしたものかなと期待して読んだが、戦後30年のふりかえりで当時起きた大きな事件や出来事などを1編十数ページほどでその事件に関係した人々に取材した新聞記事とか雑誌記事風な文章群だった。新聞の連載をまとめたようなものなのかなと思うような文章。そうした良くも悪くも新聞風な文章なので、期待していた当時の空気感が感じられるようなものではなくて少し残念。
 「アメ横三兄弟”廃墟の商法”――ヤミ市事始め」闇市についても、もっと知りたいな。
 『地下道は、寄る辺なく、住むあてもない引き揚げ者、復員軍人、戦災者たちの仮住まいの難民区であった。なかば流浪したそうした人たちの群れに、カツギ屋、買い出し客の一部も加わり、地下道は異様な熱気にざわついていた。』(N1466あたり)戦災孤児は浮浪児の3割以下で、『多数派は窮乏過程、欠損過程から、食うために、あるいは自由を求めて、この世界にはいった家出少年たちであった。』(N1479あたり)もちろん後者にも戦争の影響があるが。
 「トッツァは米に行き米に死んだ――強権供出悲し」混乱期の物々交換でにわかに金持ちとなった農民もいたが、『供出にあえぎ、保有米まで出してしまって、手当て米の配給を受ける農家も珍しくはなかった。』(N1964)ようやく一息つくことができたのは、豊作だった1948年になってから。
 「先生にウソを見た”墨塗り”の子ら――”戦犯教科書”」宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の一日玄米三号(原文は四合だが、文科省は配給事情を考えて、あえて三合にした)という文章を見て、生徒が贅沢だといったというエピソードが当時の窮乏ぶりを感じさせる。当時の米の配給量は一日二合一勺。
 「アメリカ世の生活ゲリラ――戦果あぎゃあ」『日本本土進駐の兵隊たちと違って、沖縄の米兵は殺伐とした戦場感覚を戦後の支配者意識になまなましく引きずっていた。米兵の理不尽な発砲、暴行は、毎日のように至るところで起き、射殺され、重傷を負わされる住民の悲惨が相次いだ。』(N3500あたり)生活苦だけでなく、そうしたこともあって米軍から物資を横領する戦果をあげる人々が多くいた。