回想のモンゴル

回想のモンゴル (中公文庫)

回想のモンゴル (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

一九四四年夏、著者は二十四歳。戦争という状況下であったが、モンゴル草原における牧畜の研究に青春の情熱のかぎりをそそぎこんだ。終戦から帰国までの日々を書きつづった「回想のモンゴル」とともに、遊牧民の生活用具類を克明なスケッチであらわした「モンゴル遊牧図譜」などを収載した貴重な記録。

 著者は現在の内蒙古にて1944年夏から翌年の夏の戦争末期にモンゴル遊牧社会のフィールド・ワークを行った。前半はその時のことが語られて、後半はモンゴルの遊牧社会で使われているさまざまな道具などが多数の図とともに記された「モンゴル遊牧図譜」などが書かれている。そして最後に36年ぶりにかつて調査した内蒙古に赴いて、当時の知り合いと邂逅した話が書かれている。
 前半の「回想のモンゴル」本土から遠くて物資もある場所で、何よりも望んでいたモンゴル調査に行くことができたということもあって明るい雰囲気で当時のことが語られる。そうそた西北研究所での研究者たちの姿が書かれているのもいいね。
 調査旅行に中華民国政府が作成した地図を持って行った。それは『図面いっぱいに、ぎっしりと等高線がかきこまれていて、標高も記されている立派な地図だった。/ ところが、現地でじっさいの地形とこの地図とを照合してみると、まったくあわないのである。この地図の等高線は、じっさいに測量してかいたものとは、とうていかんがえられなかった。まったくのでたらめなのである。それにしても、この広大な面積を、でたらめな等高線で綿密にうめつくすには、ひじょうな労力をひつようとしたであろう。それにもまして、わたしは中国人地図作製者の空想力のすさまじさに、ただただ驚嘆するばかりであった。』(P63)面白い話。
 モンゴル遊牧社会のラマ寺院は『社会の固定拠点として機能して』いて、『おおきな寺院では肝心の店があり、流通の拠点になっていた。/ また、あるラマ寺では、境内にたくさんの木造家屋がならんでいて、どれにも錠がかかっていた。それは遊牧する牧民たちの固定倉庫なのであった。牧民は日常生活に不要な家財道具を、ここにしまっていたのである。』(P67)預ける場としても利用されていたというのは面白い。また、学問の拠点であり、医療機関でもあった。
 遊牧へのヨーロッパのイメージは季節移動、西南アジアの遊牧は季節移動だからそのイメージ。しかし『モンゴル牧畜における遊牧移動は、基本的に、規則ただしい季節移動ではなく、むしろ、不規則な彷徨にちかい。』(P76)山岳地帯ならば季節による上下動があるが、モンゴルのような大平原ではそうではない。また遊牧移動の大一要因は草でもないようだ。そのため著者はステップ遊牧の起源は有蹄類との共生で、動物の移動に合わせて人間も移動するというのが始まりではないかという仮説を立てた。
 雪やみぞれが降って、それが固まって草が凍りつくジョドという家畜災害。それが起きると家畜が食べるものがなくてバタバタと死んでしまう。それが一番大きな災害で、大富豪でもそれが来ると貧乏になることもある。
 満洲国からの脱出は悲惨だったが、著者のいた蒙疆からの撤退はスムーズで無事に天津まで混乱もなく脱出できたようだ。 
 「ラクダのはな木」モンゴルではらくだの鼻の穴の下、上唇の上の部分にはな木をつける。それに手綱をつけて、らくだを動かしている。
 「ウシの口がせ」妊娠しないままに冬を越すことになった牛はまだ乳が出るが、それを草を食べて過ごせるようになった牛に乳を飲ませないために口がせをして飲ませないようにすることで、人間が牛乳を利用できるようにする。
 「モンゴル遊牧図譜」遊牧社会で使われるさまざまな道具について図とともにその道具の説明がされる。そうした細々とした道具を見ることでその社会の普通の生活の一場面を色々と想像できておもしろい。
 『各人が懐にもっているお椀 アイガ』(P170)は木製だが、内面や外面に銀で繊細な浮き彫りがほどこされているものもある。それは『モンゴル人のダルハン(銀細工師)がつくる。材料の銀は注文ぬしが銀貨をもっていく。』(P170)材料として銀貨を使うというのは言われてみればたしかにそれが一番容易だとは思うが、貨幣のイメージが強いから材料として銀貨を持っていくということにちょっと驚いた。
 スーテイ・チャイ(塩味の乳茶)。『椀にそそがれたスーテイ・チャイには、いったキビをひとつかみなげいれて、すする。茶はなんどもおかわりをする。最後にふやけたキビを舌でなめるようにして食べる。これが最も日常的な食事である。』(P169)案外質素。粥みたいな位置づけなのかな。
 乾燥した牛糞を燃料としているが、それを入れるための箱がある。箱以外にも牛皮製の牛糞(アルガル)入れもある。
 『井戸は、草原の各所にもうけられているが、これはだれの所有でもない。モンゴル人であれば、だれがつかってもよい。井戸は草原とともに全モンゴル人の共有財産である。』(P189)