青きドナウの乱痴気

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)

内容(「BOOK」データベースより)

つるはしやスコップをかついで市内にながれこむ労働者、銃をとる女たち…。ウィーン48年革命を、無名の民衆の血のかよう歴史の現場としてあざやかに再現した、社会史の傑作。

 1848年のウィーンでの革命騒ぎ、そして当時のウィーンの街の様子や民衆の姿が書かれる。そうした当時の街や民衆の姿の描写が面白い。

 ウィーン19世紀初頭の人口は21万弱だったが、1850年には約43万人と倍増する。地方からウィーンに来た貧しい人々の中には、下水道で寒さを凌ぐ者もいた。また雨が降るたびに雨水で流れた金属などを探しに下水道に潜る人もいた。
 『ウィーンもまた呼売りの街である。さまざまな物売りや移動する手工業職人たちが路上をやってくる。』(P53)『子供たちの遊び場所でウリアルクブレーツェル売りも、すでに一八世紀の風俗画のなかにおさめられている。丸型、角型、ハート形、さらに八の字型など、さまざまな形に棒が死を焼いて、子供たちのほか、市外区の場末の飲み屋や近郊のホイリゲでワインのつまみに売り歩く。』(P59)江戸時代についての本を読んでいてもそうだが、こうした呼売りとかは今はない日常を感じさせてくれるものだから、読んでいてなんかいいなと思える。
 『ボヘミアモラヴィアガリツィアのユダヤ人は、あらかじめ「戸籍」の数が法的に定められていて、たとえばボヘミアは八千六百の戸籍数しか許されていなかったから、ユダヤ人の場合、結婚して家庭をもてるのはほぼ長子に限られていた。』(P64-6)そんな制限が存在した場所もあっのか。
 『どの家にも街路に面した入口に重く大きな木の扉がある。昼間は開け放しのままで、夜間は錠がおろされる。扉を抜けて暗い穴倉のような地階に足を踏み入れると、階段の下にたいていはハウスマイスターの住居がある。』(P150)市内区の門限は十時で市外区の門限は九時と決まっていた。酒盛りをしていてその時間までに家に帰れなかったりすると、ハウスマイスターにいくらか(六クロイツァー銅貨が相場)支払って開けてもらう。『当時のウィーンの庶民生活を記録文学風に描いた詩人グロース=ホフィンガーも、『ウィーンあるがまま』の二冊目をハウスマイスターの生態描写にあてている。家の戸を開けてもらうにも、相場の六クロイツァーやるだけじゃ、ベルを半時間も鳴らしてからやっと、喚きながら起きてくる。旧クロイツァー出すと、無愛想だがすぐ開けてくれる。十五クロイツァーも出すと、とはぱっと開き「お帰り」「お休み」の挨拶つきで、ランプも灯してくれる。三十クロイツァー出す殿方には、住居の戸口までランプで先導し、「旦那様のお手にキスを」などとぬかす。』(P152)こうした生活感のあるエピソード、面白い。
 ウィーンの女子労働者の賃金は非常に少なく、売春を副業としなければならない者も多かった。『当時のかなり正確な統計数字が残っているのだが、この時期のウィーンでは生まれた子供の二人に一人は私生児だった。おまけに生まれた子供の三分の一は捨子として捨子院に収容された。最も捨子といっても、臨月近い母親がまず収容されて、産んだ子は施設からよそに貰われて行く場合が多い。(中略)この種の施設は、ヨーロッパのどこでもそうだったのだが、収容された子供は大部分大人にならないうちに死んでしまう。ウィーンのばあいもこの種の施設ができてから一八三九年までの五十四年間に、収容された子供がのべ十八万人、施設で死んでしまった者が十四万人、一定年齢に達してともかく施設を出ることができた者はわずか二万人だった。』(P232)数字としてみると、かつての孤児院の死亡率の想像以上の酷さに引く。 

 1848年3月13日、学生と連帯した労働者の暴動が起きる。『皇帝側近の支配層は、リーニエ外や市外区で荒れ狂うプロレタリア暴動を目の当たりにして、急遽市民・学生の武装を許した。七千の兵でもあの火の柱を消すのは無理だと、軍の報告もあったからである。』(P90)
 その暴動を前に宮廷側も譲歩し宰相メッテルニヒが辞任が決まり、そして彼は夜逃げのようにウィーンから逃げだすことになる。最後の要求の憲法樹立も、早い時期に憲法審議のための全領邦議会を招集し、市民層も参加させると皇帝が約束したことでひとまず落着。
 宮廷内の反メッテルニヒ派が、メッテルニヒ辞任に追い込むためにデモの動きを知りつつ野放しにしていた。そしてメッテルニヒ追放が実現したはいいが、今度の事件は彼らの想像以上に大きく過激になった。
 ウィーンで国民軍が作られる。民衆の運動の高まりを受けて皇帝がウィーンから脱出する。学生たちで作っていたアカデミー兵団は、夏休みで帰郷して冷静になりウィーンの騒動で命を捨てることもないと思い直し、そのままウィーンに戻らなかった者も多かった。そのため10月のウィーン革命の最終局面ではアカデミー兵団は当初の四分の一の規模になっていた。
 そしてウィーン革命は10月に皇帝軍に負けて終わる。