戦国北条記

戦国北条記 (PHP文芸文庫)

戦国北条記 (PHP文芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

国府台、河越、三増峠の各合戦や、小田原篭城戦―。北条五代を「合戦」と「外交」を軸に読み解くことで、関東における戦国百年の実相が見えてくる!伊勢盛時(のちの北条早雲)による伊豆平定から、小田原で豊臣秀吉に屈するまでの興亡の歴史を、最新の研究成果を盛り込みドラマチックに描く。従来の北条氏のイメージを一新させる戦国ファン必読のノンフィクション。


 戦国時代の関東に興味があったので読む。戦国北条氏4代についての本。戦国北条氏の事をあまり知らないので、「おわりに」で『基本的に、定説と言われているものを紹介し、それに対して疑問があれば私見を述べさせていただくという形式を取った。』(P278)と書いているように、基本的に定説を紹介してくれるのはありがたい。
 初代の伊勢新九郎盛時(北条早雲)の『伊豆・相模への侵攻は、幕府管領細川政元の起こした「明応二年の政変」と連動した一大広域作戦だった。』(P4)
 伊勢新九郎盛時は備中伊勢氏の出身。その本家の京都伊勢氏は足利氏家臣で、足利義満の頃から政所執事世襲してきた家。
 足利義政に代わって政治を主導していた政所執事伊勢貞親は、庶家の家督継承問題に介入したり、あえて混乱を招く沙汰を下す。そうすることで有力守護の勢力を削減して、将軍専制を強めようとした。細川勝元山名宗全は手を組んで伊勢貞親に対抗していた。
 貞親は将軍家の後継者問題で、足利義視が将軍義政の暗殺を企てていると讒言して追討令を出させるが、細川勝元に貞親の陰謀と糾弾した。そのため伊勢貞親は追放される。
 同じ頃、山名と細川の関係が悪化。将軍義政は『政治への意欲をなくしたというより、貞親を追放したため、権力を行使する手段を失い、東山山荘の造営などの文化事業に傾注していく。』(P16)そして応仁文明の乱が始まる。
 伊勢貞親の『永享四年(一四三二)という生年にも疑義が呈され、昨今では康正二年(一四五六)が定説となりつつある。かつての定説より二十四歳も若返ったことになり、後の積極果敢な行動力も、この年齢ならうなずける。』(P18)生まれ年についての定説がそんなに変わったというのも面白いな。
 伊勢盛時の父は伊勢貞親の側近として幕府政治の中枢を担った一人。文明十五年(1483)伊勢盛時28歳時に、九代将軍義尚の申次になっている。そのことからも彼が伊勢の素浪人ではなく、室町幕府のエリートだったことがわかる。
 32歳の時に所領である荏原荘を従兄弟に売って、駿河下向。幕府の威権回復を目指している新将軍義尚が六角討伐中であった。そうした流れをとらえた伊勢盛時は幕府権力を背景に、前将軍義政が駿河今川氏の家督継承者を竜王丸(氏親)と認めていたのに、当主の座についている小鹿範満征伐へと国衆を駆りたてた。小鹿範満を打ち取って駿河国の東方に所領を得て、範満派であった堀越公方への牽制役となる。また今川氏の家宰的立場となる。
 享徳の乱終結太田道灌が活躍して手に入れた所領や権益は元は、山内上杉氏のものだった。山内上杉氏の物を道灌が奪って彼の手に収まった。そのため山内上杉氏は当然面白くない。扇谷上杉氏も勢力を増やして、勝手な振る舞いをするようになった道灌のことを面白く思っていない。そして太田道灌が謀殺され、太田氏の所領が扇谷上杉氏のものとなる。山内上杉氏は所領を取り戻すべき、道灌の消えた扇谷上杉氏に攻め込む。長享の乱が始まる。
 小鹿範満討伐の翌年の長享二年(1488)に関東三戦と呼ばれる大合戦が勃発。扇谷上杉氏が勝利するも国力の差もあって、新たに獲得した領土の維持がままならず撤退して、勝利の意味が消えてしまう。扇谷上杉氏の定正は軍人肌で調略や政治を不得手としていた。
 関東公方として東下した堀越公方足利政知は、都鄙和睦で将軍が古河公方を認めたことで、伊豆一国を下賜されるにとどまった。彼は京にいる嫡男清晃を次期将軍にして、次男を堀越公方にすることで東西を自分の支配下におさめようともくろむ。その構想のため堀越公方を継がせるつもりだった庶長子茶々丸を土牢に幽閉した。
 義尚の次の将軍は、義材と清晃で争った。足利義視は自身の息子である義材が、決定権を握っていた足利義政の妻・富子に、富子にとって血縁的に最も男児であり、義政の遺言と称して義材を推して彼を将軍にした。しかし将軍にに着かせた後、富子の要求を無視するようになる。義視に騙された富子は清晃支持に転じた。
 そして同年堀越公方が病死し、山内上杉氏の援助で茶々丸が反乱を起こして、堀越公方家を乗っ取った。
 そのため将軍義材派(幕府管領畠山政長、越後管領上杉房定、関東管領山内上杉顕定、堀越公方足利茶々丸)と清晃(足利義澄)派(元幕府管領細川政元、播磨・美作・備前守護赤松正則、政所執事伊勢貞宗・貞陸父子、相模守護扇谷上杉定正駿河守護今川氏親)といった対立があった。
 そして細川政元の名王二年の政変が起こり、それに連動して伊勢盛時の伊豆討ち入りが起こる。明応二年の政変で足利義澄が将軍となり、細川政元管領となる。
 伊勢盛時は、扇谷上杉氏上杉定正と接近して、その支持を取り付ける。そして茶々丸が反乱を起こした際に将軍の母と弟が殺されているということもあって、足利茶々丸討伐の御教書が出される。そして伊豆侵攻。それと同時期に伊勢盛時は出家して、早雲庵宗端となる。
 『後に「海道一の弓取り」とたたえられた今川義元の版図の大半は、宗端のかつやくによって築かれたのだ。
 宗端の今川氏への軍事的貢献は見逃されがちだが、その手腕には際立ったものがあり、今川氏の勢力基盤作りに多大なる貢献を果たした。
 しいて言えば、宗端がその手腕をいかんなく発揮したのは、関東でも伊豆でもなく、実は今川氏の西部戦線だった。』(P86)この話は意外で面白い。
 宗端は前将軍義材が大内氏とともに上洛した時に、すぐに誼を通じて今川氏親とともに新体制に与する。
 大永三年(1523)、二代目の氏綱が苗字を北条氏へと改称。
 北条氏は今川氏と親しかった。今川義元は、氏綱が義元側として介入することで家督の座に就いた。しかしその義元は北条に何の通達もなく、北条氏の不倶戴天の敵である武田信虎と同盟を結び、その長女を正室にした。そのため、北条は今川氏と敵対して駿河に進出して、富士川以東の地を制圧。以後九年富士川を挟んだ戦闘が繰り返されることになる。