その後の慶喜

その後の慶喜: 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫)

その後の慶喜: 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫)

 32歳で最高権力者の座から降りた慶喜の大正二年に77歳でなくなるまでの長い後半生、明治の慶喜を描く。『彼は、権力の座から降りたあと、その後の長い人生を極めて平凡に生き、大往生を遂げたのである。つまり畳の上で、幸せになくなった。このような権力者はそうはいまい』(P10)
 明治期の慶喜は、信頼していた渋沢栄一にも政治的発言は一切しなかった。『なお、水戸・静岡二移り住んで以後の、慶喜の長い後半生に関連して、最初に確認しておかねばならないことがある。それは明治三十年代に入って復権を果たすまでの慶喜が、常に自身の朝敵としての立場を意識し続けたこと、および幕臣らの自分に押した卑怯者との烙印に耐え続けたことである。』(P31)そのように何十年も口をつぐみ、耐える力はすごいわ。
 徳川慶喜が明治五年から大正元年まで慶喜と家族の日常生活を記した「家扶日記」。同時代の政治的・経済的・社会的な動きは反映されていない。『もっとも、よく目を凝らせば、権力の座に就いていた幕末段階の慶喜からは容易に伝わってこない、彼本人が持っていた個性もしくは志向といったものが「家扶日記」から垣間見える。』(P51)例えば元日でも趣味の狩りに行ったり、あるいは世間の風に当てた方が子供の生存率が高いだろうとある程度大きくなるまで(数年ほど)ごく普通の庶民の家にだすなど、タブーを恐れない。
 『徳川慶喜にとって、静岡に移住した当初の十年間はどういう歳月であったか、これが本章のテーマである。これへの回答はごく簡潔に記せば、つぎのようなものとなろう。それは、成立したばかりの近代天皇制国家との無用なトラブルを注意深く避けながら、ひたすら趣味の世界に没頭した歳月だったということである。』(P61)
 狩猟好きで、なおかつ思いついたらすぐ実行する性質の慶喜だが紀元節天長節にはほとんど狩猟をしていない(明治三十五年の天長節に参内した後に猟に出かけているのが唯一の例外)。恐らくその二日は特に意識して、無用なトラブルを防ぐために用心深くその日に狩猟をするのは避けていたのだろうとのこと。
 維新三傑が明治10、11年に相次いで死亡し、明治10年には慶喜の恩人であると同時に強い敵意を向けられていた相手である静寛宮が亡くなり、また同年に当時の静岡の徳川家(慶喜はこの家の隠居扱いだった)当主家達が英国留学に旅立った。そのようなこともあって明治十年代には徳川慶喜を取り囲む状況が和やかなものとなる。『「家扶日記」を見る限りでは、おそらく慶喜の七十数年に及んだ人生の中で、最も幸せな時代は、この明治十年であったと思われる。生命の危機におびやかされることもなく、子女にも恵まれ、母登美宮や弟徳川昭武といった気心の知れた近臣者との交流も、手紙でのやりとりも含めて十分に、もてたからである。また趣味の世界にどっぷりとつかるだけの体力もまだ残されていた。』(P84)
 明治十年代になると慶喜は歴史上の人物として扱われだす。
 明治の徳川一族の十四家。『一橋家の「家扶日記」によると、これら徳川一族は、「投票」で「徳川宗族長」を選出したらしい。』(P103)かつての宗家に従ったり、明治期はそうした紐帯がなかったとかではなく、投票で決めていたというのは面白い。
 『徳川宗族会は、どうやら構成メンバーに対して、監視めいたことも時には行ったらしい。』(P124)そして宗家とその支配下にあった慶喜家には他に勝海舟大久保一翁・山岡鉄太郎という強烈な御目付役がいた。
 慶喜家は経済的にも宗家に従属していたため、公爵を授与されるまで、瑣末なことでも宗家にお伺いをたてなければならなかった。しかしそうした立場を強調することで、面倒事や胡散臭い申し出を拒否できたというメリットもあった。

 御目付役の勝らは、慶喜に強く自戒を求めていた。そのため静岡に三十年もとどまった。そのため渋沢栄一は『私は、勝伯があまり慶喜公を押しこめるようにせられて居ったのに対し、快く思わなかったもので、伯とは生前頻繁に往来しなかった。勝伯が慶喜公を静岡に御住わせ申して置いたのは、維新に際し、将軍家が大政を返上し、前後の仕末がうまくはこばれたのが、一に勝伯の力に帰せられてある処を、慶喜公が東京御住まいになって、大政奉還前後における慶喜公御深慮のほどを御談りにでもなれば、伯の金箔がはげてしまうのを恐れたからだなどというものもあるが、まさか勝ともあろう御仁が、そんな卑しい考えを持たれよう筈がない。ただ慶喜公の晩年に傷を御つけさえ申したくないとの一年から、静岡に閑居を願っておいたものだろうと私は思うが、それにしてもあまり押し込め主義だったので、私は勝伯に対し快く思っていなかったのである。』(P144)と述べているように、慶喜と親しい渋沢はその強い押し込めに憤っていた。
 公爵も授与されて、勝も死亡して数年経った明治四十年代に入ってようやく慶喜は「昔夢会筆記」で自分の過去について率直に語る機会を持った。「昔夢会筆記」では大久保一翁と勝について好意的な意見を述べていない。『他人をそれほど批判的な口調で評してはいないことである。その中にあって、この両人に対しては、めずらしくかなり辛口の批判が下されている。それゆえ、逆にここから慶喜の両人に寄せる思いのほどがうかがわれるのである。』(P151)そら数十年間も厳しく行動を上から制限されていたらそうなるわな。
 勝海舟の呪縛も薄らぎ、子供たちも結婚や学習院への入学のために東京へ出て行って身辺がさびしくなったということもあり慶喜は東京へ移住することになる。
 東京移住後の慶喜は、24歳下ながら気もあい、血縁的なつながりも深い有栖川宮威仁親王慶喜母登美宮は6代有栖川宮の娘で、慶喜の兄も8代有栖川宮の娘を妻とし、9代有栖川宮の妻は慶喜の異母姉妹で、慶喜の嗣子である久の妻は威仁親王の娘)と親しく付き合う。
 明治三十一年に初めての参内。この時の伝説的なエピソードとして、慶喜が帰った後に明治天皇慶喜の天下を取ってしまったがやっと罪滅ぼしができたといったことを伊藤博文に述べたという話があるが、伊藤から奥田義人、奥田から吉野作造、吉野から尾佐竹猛へと伝わったものを高橋正雄が聞いて、それを座談会で話したもので、その話の信憑性は怪しいとのこと。
 また、この天皇との会見は、それまで天皇と会わないことで消極的な抵抗をしてきたので再度の敗北だとする見方がある。しかし『このような評価の背後には、明治期の慶喜を公的権力から離れ、自由な立場にあった隠居(私人)であったと捉える認識があった。/ しかし、明治期の慶喜は先に見た勝海舟らとの関係でも明らかなように、自己の意志にもとづいておのれの行動を選択できるほど自由な状況に置かれていなかった。彼は天皇との会見を拒否し続けられるような立場ではありえなかった。』(P173)元から消極的な抵抗ではなく、勝海舟らの強く自重を求める押し込め主義の結果そうなっていたということだろう。
 この会見で『誰の眼にも明らかな形で明治天皇との和解が成立したことで、長年慶喜を苦しめてきた逆賊の汚名がようやくにしてはずれ、彼の名誉回復が達成されたのである。普通ではない格別の喜び方を慶喜がした理由もそこにあった。そしてなにより、この日をもって、慶喜に対する勝の支配が終息を迎える。』(P174)そうした喜びようからも、彼がその会見を再度の敗北としてとらえていないことがわかる。
 これを機に宮中行事の招待を断ることは原則なくなり、先祖の霊屋に年賀のあいさつに赴くようになる。
 慶喜と親交が深い有栖川宮威仁親王東宮明宮嘉仁親王大正天皇)の賓友として皇太子の輔導・監督をしていたということもあって、慶喜は皇太子と引き合わされる。そこから皇太子との親しい交流が始まる。年齢や外貌は違えど、両者のキャラクターは似ている。それもあってか皇太子は親子ほど年の離れた慶喜に好意を寄せた。
 『私が幕末期以来の慶喜の生涯を探った時、ふときづかされたことがある。それは彼にとって、重大な選択を迫られた時(もしくは環境の激変が予想された時)、しばしば猛烈な腹痛に襲われていることである。』(P187)孝明天皇石清水八幡宮行幸したとき(後年、山上まで供奉するつもりだったがひどい腹痛だったと証言)や、水戸への隠居謹慎を新政府から命じられた時も腹痛に見舞われた。それらは一般に仮病だと説明されることが多いが、本当のことだったのかもしれない。慶喜がそうした体質で仮病ではなかったかもという話は面白いな。
 大正元年終盤には、有栖川宮威仁親王が欧州土産として贈ってくれた自動車に夢中になっていたというのはいいね。そのように最晩年を穏やかに幸せに過ごしていたようなのは何よりだ。