白河法皇 中世をひらいた帝王

 院政をはじめた白河法皇とその時代を描く。
 白河天皇の父である後三条天皇の母禎子内親王で、摂関家の出身ではなかった。かつて道長が自身の外孫を皇太子に据えるために、東宮を辞退する代わりに太政天皇の待遇をする交換条件を呑まざるを得なかった小一条院と同じような境遇。そして関白頼通は後三条天皇立太子や即位を反対していた、そうしたことを考えれば後三条天皇もまた天皇になれない可能性もあった。
 それでも170年ぶりに摂関や藤原家を外戚としない天皇となった後三条天皇
 道長の長男頼通の弟能信とその養子(同父同母である兄の子)である能長は『不安定な立場にあった禎子内親王が産んだ後三条天皇を、東宮から即位にいたる過程でささえていたのが、この能信と能長のようなのである。』(P24)道長の子・孫である彼らが関白頼通と対立してまで後三条天皇を支えた理由。能信の母(能長の祖母)が安和の変で失脚した源高明で、摂関家主流に対する傍流の反乱。
 能信は後三条天皇立太子を成功させて、翌年自身の養女を後三条のもとにいれて、彼女が生んだのが後の白河法皇後三条東宮になった後も関白頼通の圧迫が強くあったため、白河法皇への親王宣下が長く行われなかった。
 関白頼通は娘が後冷泉天皇の皇后だったので、彼女との間に皇子が生まれることを望んでいたが、1068年に後冷泉天皇が皇子を残さぬまま世をさったことで、後三条は23年の東宮生活の後に天皇に即位することになる。それと同時に白河法皇親王となり、翌年には皇太子となる。
 関白頼通は後三条天皇が即位する直前に、将来自分の子師実を関白にする約束で関白の地位を弟教通に譲る。
 後三条天皇の延久の荘園整理令。『荘園整理令といいながら、じつは領域型の荘園を、条件を満たせば朝廷が、究極的には天皇が認可する、ということになる。すべては天皇のもとへ、というわけである。これ以降、荘園制が成立し、中世社会の基盤をなしていくのは、そうした荘園の公認、あるいは公的荘園の成立が、この荘園整理令をきっかけになされていくためである。だから、荘園は中世の土地制度なのである。荘園が古代の物であるなどというのは、もうずっと古い学説で、過去の遺物と考えて良い。
 律令制敵古代国家を正式には廃止しないまま、実質的に変えていく日本の中世国家あるいは社会のありかたが、この法令にはっきりと刻印されているのだと思う。すなわち、荘園整理令がいかにも古代的な、あるいは復古的な顔をしながらも、実はかなり革新的な性格さえ持っていることがわかる。』(P32)
 弁官局をしきり、荘園整理令の文書審理をする記録所の弁としてその中枢をになったのが大江匡房。彼のような博覧強記の能吏がいたから、新しい政策(摂関家を抑えるための政策)を打ち出すことができた。
 大内裏再建のために荘園・公領ともに賦課する一国平均役を徴収する。荘園整理令・記録所設置はそのための土地台帳作成のためのものでもあった。
 後三条天皇小一条院の孫である女御との間に実仁親王が生まれた。後三条には道長の圧迫で皇太子の地位を辞さなければならなかった小一条院に特別な思い入れ、あるいは小一条院後三条の母の兄でもあるから母の思いもあったのかもしれない、それもあって実仁親王白河法皇は争うことになる。
 後三条天皇は意欲的に親政をしていたが4年9カ月で、後白河に天皇位を譲り、そして実仁親王が皇太子となる。その五ヶ月後に後三条が死亡したため、その意図はよくわからない。そのため後三条院政開始の意図があったかなどが議論される。譲位後すぐ死亡したが病気が悪化したのは譲位後で、摂関政治に戻ることを防ぐために藤原氏出身の母を持つ白河天皇の次に、皇族出身の母を持つ実仁を皇太子に早々に据えた。
 それもあって祖母(後三条の母)や父後三条は実仁の味方で、新天皇となった白河法皇の味方ではない。彼は立場の弱い、中継ぎ天皇として即位した。『となると、頼れるのは意外や、即位の前年の延久三年に東宮妃となった藤原賢子の養父師実、ということになってくる。師実はあの頼通の嫡子であり、当時、左大臣であった。関白は叔父の教通。彼らとの関係を強めることは、祖母や父との対立の火種となりかねない。しかし、白河天皇の賢子に対する深い愛情が、その危険な道へと踏み出させることになる。』(P45)
 白河天皇は賢子が危篤となっても側から離れず、天皇が死に立ち会う例はないと近臣に諌められても『例ハ此ヨリコソ始メラメ」と述べるなど深く彼女を愛していた。そのため彼女との間の皇子に天皇位を譲りたいと思っていた。
 実仁が病で死亡しても、祖母の陽明院(後三条の母)がいて、また実仁の同母弟輔仁もいた。しかし陽明院を何とか説得して、白河天皇は賢子との間の皇子を皇太子にして、同日に譲位して堀河天皇が即位となる。賢子は村上源氏出身だが、師実の養女として白河の妻となったので、新天皇の摂政となった師実は天皇外戚となった。
 これで白河法皇院政がはじまるが、輔仁即位の可能性も消えていないので、直ぐに独裁的権力を持ちえたわけではなかった。王家と摂関家は対立要素含みだが、輔仁勢力を共通の敵として提携を強める。
 1089年師実は子の師通に関白を譲る。関白は若い天皇とともに政治の刷新を行う。しかし関白は白河院や父師実にも相談せずに政治を行うなど過激。師通がそうした理由には輔仁勢力という共通の敵が弱くなっていたこと、また関白の地位は父から譲られ堀河天皇に任命されたので、彼にとって白河法皇は引退した存在という認識だったことがある。そのため『この時期の白河上皇の立場や摂関政治期の宇多上皇や円融上皇などと変わりのない弱いものだったといえよう。』(P53)
 1099年に関白師通が急死。天皇親政が正当な政治形態という観念があり、堀河天皇も成人している。そのため院政か親政かで派閥が分かれる。1106年に堀河天皇が逝去して、幼い鳥羽天皇が即位。
 関白師通の死後、その子忠実の政治的影響力は左大臣にも関白(内覧にとどめられて、その6年後にようやく関白となる)にも中々つけなかったため、小さいものとなっていた。
 堀河天皇の死後。鳥羽天皇の母の兄である閑院流藤原氏東宮大夫公実が摂政就任を願う。白河法皇も公実の祖父公成の娘が母であり、公実の天皇の外祖父でも母が他の伯父でもない人間が摂政になったことはないという主張もあって、本気で悩んだ。
 しかしその問題は醍醐源氏で大納言だった源俊明が摂政人事の決断を迫った勢いに押されて、法皇は関白忠実を摂政にするという常識的な決定をすることになる。そのため以後摂政は外戚いかんに関係なく摂関を継承する家系から任命されることになった。『ここに摂関家が名実ともに成立した。』(P67)
 1120年忠実は内覧を一時停止され、嫡子忠通と代替わりする。
 『鳥羽天皇が即位するまでは「院政」とは名ばかりの状態であった。むしろ師実や師通による摂関政治や堀河による親政が行われていたといったほうが、実態に即している。』(P83)摂関政治天皇とその外戚や父院、天皇の母が権力の中枢を形成するミウチ政治。
 しかし鳥羽天皇即位後、重要な問題は院御所議定で審議されるようになる。
 そしてミウチが政権中枢、公卿の寡占は失われて、『もはや、ミウチとしての立場を政治的権威の源泉とはみなさなくなってきた。』(P113)そのため新たな外戚となった村上源氏閑院流摂関家のように政治中枢を掌握できなかった。
 そして院近臣として受領層や実務官僚が台頭してくる。
 院庁別当。『白河院発足時に確認されるのは五人であるが、初期においてもなんと一〇人ほど任じられている。この数は特異なものではなく、それ以前の円融・三条上皇のときと同様であった。そして白河院聖後期には二〇人前後、さらに鳥羽院世紀には最大二九人になったこともある。』(P131)全員がその仕事をしているのではなく、上流貴族の公卿別当は名目的な存在の人も多い。
 白河院政期、摂関家の弱体化にともなって白河法皇の人事介入が激しくなったことで、寺社強訴が増える。そして『強訴が頻発する状況では、大量の軍事的動員が恒常的に必要になってくる。そのようななかから、検非違使などの世紀の京都の警察組織の枠を超えて、「武勇之輩」、つまりかんたんにいえば武士を広く動員する体制が整備されていくのである。』(P166)
 御所は『生活するにはおよそ殺風景な場所』(P238)。『それに比べると、鳥羽殿には池や庭園があって天国のような場所である。そんな場所で生活し、遊興にふけることが、譲位後の白河上皇の当初の目的だったのだろう。』(P239)