悟らなくたって、いいじゃないか

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)


 対談本。プラユキ・ナラテポー氏は、タイでテーラワーダ僧侶となって30年近く出家生活を送っているという日本の方。タイのスカトー森林寺の副住職、瞑想指導者。
 魚川氏の問題意識。『「実践する仏教」に関するパースペクティブの混乱』(N249)。禅やチベット仏教テーラワーダなど多種多様な実践が一様に「仏教」の実践として一緒くたにされやすい。それぞれの仏教の実践をすることでどうなるのかという到達点、この実践はこれを目的としているという地図がない。
 人生の糧として仏教を学びたいという潜在的需要が日本にも存在する。『そうした方々の求めに応じるためには、現実には性質や「目的地」が様々に異なる複数の「実践する仏教」について、それらの相違点と互いの関連性を、「どれが本当で正しい仏教なのか」という文脈には属さない仕方で提示する「地図」が、やはり必要になると思います。本書では、プラユキ先生が実践される仏教の性質について明らかにすることで、この「実践する仏教のパースペクティブの一端も見えるようにしてみたいんですね。
プラユキ なるほど。プラユキの仏教の「位置」がわかれば、そこから他のさまざまな「実践する仏教」の相対的な位置関係も、多少なりとも見えてくることになるというわけだね。』(N324)

 プラユキ氏が教える実践。チャルーン・サティ、過度な集中で心身のバランスを崩すことを防ぐため、手を動かしながら瞑想する手動瞑想。
 「悟り」は曖昧で多義的なもので、同一宗派の修業を積んだ高名な僧侶同士でも悟りの内容について意見が異なることも現実に存在する。

 ○タイとミャンマーの違い。いずれが正しいとかではなく各人の資質や目的によって選ぶ瞑想法は変わるからと、いずれか一つの瞑想法にこだわらずさまざまな瞑想法を教えているアメリカのIMS瞑想センター。
 アメリカのIMSという瞑想センターの共同設立者で、アメリカを中心に流行しているマインドフルネス運動の源流をつくった一人でもあるジャック・コンフィールド氏の「タイ・ミャンマー修業体験」。魚川氏が両国のテーラワーダを見てきた上での実感と同じことが書かれている。
 コンフィールド氏はミャンマーのマハーシ瞑想センターでは、丁寧に瞑想の指導をしてもらいテキストに書いてあるような瞑想上の境地を経験できた。しかしその瞑想の偉い先生は足をテーブルの上に乗せて新聞を読んだり、下手な庭師を怒鳴ったりする人でもあった。『人格的に優れた僧侶や瞑想者の方々は、もちろんたくさんいらっしゃいます。(中略)ただ、「瞑想の技術において優れていることが、人格的に優れていることと直接的にはつながっていない」という点において、私はコーンフィールドさんの観察に同意しますね。』(N499)
 タイでは『生活における実践が主で瞑想がそれに奉仕する』(N511)。『コーンフィールドさんも、マハーシ・センターでさまざまな瞑想上の境地を経験した後に再びチャー師の寺に戻ってそのことを報告したそうなんですが、そうしたらチャー師は微笑みながら一言、「よろしい。手放すものがまたできたな」と言ったそうです。経験は経験として評価するし、それらは「悟り」的な者ですらあったかもしれないけれど、やはり過ぎ去ったものである。チャー師にとっては、そうしたものを、いま・ここの一瞬一瞬に本人が体現できているかどうかのほうが、大切だったということです。』(N560)
 ただしテキストにあるような瞑想上の深い境地の経験が無意味ということではない。コンフィールド氏もチャー師の教授法に深い感銘を抱きつつも後に設立したIMSではマハーシ式を基礎とした。しかし他のミャンマー系統やタイ系統など様々な系統で学んだ人も招いて瞑想の指導するようにした。なぜなら『そもそもゴータマ・ブッダ自身が様々な手段によって弟子を導いた教師であったし、一つだけの技術に限定して瞑想を教えたとすれば、それは特定の種類の人々には役立つだろうが、他の人々には役立たないことになるだろうから、と。』(N572)
 チャー師とマハーシ師ともに深く悟った人と見なされていたが、互いに悟りの内容やそれを得る方法論は全く違っていた。そして『彼らは互いに相手のことを悟りに至る真の道を説いてはいないと信じていた。』(N584)
 多くの人は、そうした現実を見て正しい仏教は一つなのだからどちらかが誤っていると思ったり、あるいは意見が食い違っているように見えるのは見る目が曇っているからだなどとなる。『コンフィールドさんたちのように、「では、それぞれの先生が教える『悟り』の内容や、そこに到達する方法の中身を精査して、その性質を明らかにし、自分たちにとって必要なものを、それぞれの人が選択できるようにしよう」という方向には進まない。』(N597)

 ○瞑想を実践したいと思ったときに注意すべき点
 瞑想などの『仏教の実践をやるのであれば、「自分がどこにいて、これからどのような道を通って、どういう目的地を目指していくか」という「地図」のイメージをしっかり持っておかなくてはならないことです。』(N633)自分の資質や目的(解脱を目指す、心安らかに暮らす、仕事で創造性を発揮したいなど)に合わせて修行方法を選ぶことが大事。目的が異なる修業をして、途中で目的とは違うぞと気づいても、おかしいと感じる自分が変だとその思いを打ち消してそのまま続けてしまう人も少なくない。『もちろん、自分の狭い固定観念を打破していくことも瞑想の大切な機能ですから、それがよい結果をもたらすこともないとは言えません。ただ、中には明らかなノイローゼや、抑うつ状態に陥っているのに、それでも根性で向かない瞑想法を続けてしまって、どつぼにはまる人もいる。』(N685)そのように精神がまいる人もいるので注意。
 瞑想方法、呼吸瞑想が向いている人もいれば手動瞑想が向いている人もいる。そのように瞑想法の向き不向きもある。
 瞑想教室を選ぶ際に注意した方がいいこと。『瞑想教室に通う際に念頭において観察したほうがいいと思うのは、その瞑想を教えている先生の人格というか、為人(ひととなり)ですね。善悪というよりは(もちろん、明らかに「悪」ならやめたほうがいいでしょうが)、むしろ「自分がそういうふうになりたいか」を考えて、ごらんになってみてほしい。
 (中略)瞑想の教師というのは、その瞑想を長年やってきて、現在の為人になっているわけです。つまり、自分がこれからその先生の指導の下に瞑想をやっていくのであれば、その先生が現在そうなっているような為人へと、方向性としては、向かっていく可能性が高いということ。だから、瞑想を教えている先生を見て、「自分はこういうふうになりたいのか」と考えてみることは、実践を選択する上で、とても大切なことです。』(N784,796)
 上に書いたコンフィールド氏はミャンマーのマハーシ瞑想センターでの体験でもわかるように、瞑想すれば世俗的な意味での人格が良くなるわけではないが、無関係でもない。日本で普通の人が瞑想をする理由として人格修養を望んでいる場合が多いので、『そういう目的を直接的に実現したいのであれば、やはり瞑想経験と日常生活が自然に統合されていて、人格が円満な方を師匠に選んだほうがよい。』(N820)

 ○輪廻転生のリアリティ
 『テーラワーダの人たちが「渇愛を滅尽して苦から解脱する」ことを強調する際に、その「苦」の内容には、囲む量の時間をずっと繰り返してきて、未来においても解脱しないかぎりは永遠に続く輪廻のプロセスの、圧倒的なリアリティが含まれていますから。
プラユキ 「この一生」だけの話ではないから、渇愛の滅尽という困難極まりないタスクにも、何とか取り組もうとするモチベーションが生まれる、ということかな。
魚川 そうです。逆にいえば「この一生」だけを視野に入れて考えた場合、渇愛を滅尽することは、実践者にとってあまり魅力のある目標にはならないわけです。死んで「この一生」が終わっても、苦なる輪廻転生のプロセスは続いていくと思うからこそ、今生で何とか渇愛を滅尽しよう、というはなしになるわけで、そのように考えずに、「この一生」だけの幸福を問題とするのであれば、長者の子ヤサのように「卑俗に戻って諸欲を享受することはできない」状態になることは、ほとんどの人にとって魅力的には感じられない選択になるでしょう。
 ただ、このようにいうことで、私はテーラワーダ現代日本大乗仏教のどちらかが「間違っている」と主張したいわけでは全くないんですね。そうではなくて、文化圏が異なって、輪廻転生に関するリアリティにも差が出てくれば、そこで支持される仏教のヴィジョンにも違いが出てくるのは自然だということを申し上げたいわけです。』(N1383)そのように輪廻転生に強いリアリティがあるので、『瞑想することが、日常生活において「上手くやる」ことと必ずしもつながらなくとも、それが渇愛の滅尽に寄与したのであれば、瞑想は十分にというか、むしろ最高に「役立っている」と、テーラワーダ的な価値観からすれば、言われることはあり得るわけです。』(N1408)