犯罪の大昭和史 戦前

 昭和20年までの政治的・社会的な大事件について書かれている。一つの事件につき10〜20ページほどの分量。雑誌などで色々な媒体で発表された、それぞれの事件について書かれた文章がまとめられた本。
 昭和1年「鬼熊事件」東京日日新聞の記者坂本斉一。自殺を心に決めた岩淵熊次郎(鬼熊)にインタビューをして、特ダネを得た。その鬼熊事件取材の時のことについて記者本人が書いている。
 自殺の現場を直に見る。喉を切って死んだと思い、前日頼まれたように塩を鬼熊にかけて、南無阿弥陀仏も唱える。
 そして特ダネのインタビュー記事を載せるべく、その場を離れる。『私たちは歓喜の握手を交わし、七八丁山路を急いだが』(P62)息を吹き返した可能性に気付いて再び現場に戻ると、まだ生きていた。そのため彼は首つりをしようと思ったが諦め、苦しんでいる熊は家族からの毒の差し入れで、ようやく死ぬことができた。
 『私たちは二十九日深夜愈々ステリキと言う毒薬を呑んで墓地で苦悶をしだしたのを見て、佐原の宇井孝宅で特秘デンワをかけ、ノド切り、首ツリの失敗から毒をのむ間の詳報を本社に次々速報』(P65)した。
 相手を文字通りニュースの種としか思っていないのではないかと思わせるような無感傷さ、特ダネを何よりも優先させているように見えることにおののく。
 昭和4年「説教強盗」昭和50年の説教強盗こと妻木松吉本人と小沢昭一(俳優)の対談記事が収録されている。
 昭和5年「岩の坂もらい子殺し事件」もらい子を『数日間、形式的に育てたうえ、結局栄養不良、乳房の窒息死、過失死等の形式で、たくみに法網をかいくぐって片付けてしまう。
 五歳から一〇歳で死んだものは私立医大の解剖研究用に売り、育て上げたものは乞食の手引きにして、十五、六歳をすぎると、男なら北海道等の監獄部屋に、女なら娼妓に売り飛ばすという言語道断な処分だ。』(P149)集落ぐるみで何年もそのような行為をしていたという事実が恐ろしい。
 昭和7年玉の井バラバラ死体事件」『新聞や雑誌は今日と同じように、探偵作家を動員した。子爵で検事出身の浜尾四郎古川ロッパの実兄)、本職が医学博士の正木不如丘、牧逸馬たちが次々登場して、さまざまな推理を発表した。』(P216)昭和36年週刊現代」の記事の文章のようだが、昭和初年から少なくともそのくらいの時代まで、そんな探偵小説家に事件の推理をしてもらうという記事が普通にあったのか。
 昭和10年大本教弾圧事件」大本教の神社を破壊、開祖出口ナオの墓も壊され柩は共同墓地の一角に移される。そして『信者の墓石からは、「宣伝使」「修斎何等」などの大本教と関係のある文字が削り取られ、ナオの四女出口りょうの墓石からは、側面に出口直子氏四女とあったのを、「直子」だけ四角く削り取った。』(P298)墓までとは徹底的。
 「横浜事件昭和15年12月内閣情報局が設立。それまでの事後検閲から事前検閲になる。それまでは検閲されそうなところを××と伏字を使った。その以前のやり方だと××の内容を推量可能だったが、事前検閲だと削られた部分は分からない。GHQもそうした事前検閲していたということは知っていたが、それ以前からやられていたのね。
 昭和20年「東京ローズ事件」幻想の東京ローズ。戦地のアメリカ兵がradio tokyoの番組を一緒くたにして東京ローズと呼んで、それが一人の魅力的な幻想の女性「東京ローズ」を作り上げた。『つまり、彼らには「東京ローズ」は単なるきき伝えにすぎない。その証拠には、「東京ローズ」を口にする人々で、具体的な特徴をあげ得る人はいないのである。彼らは口をそろえて”魅力的な声”だったという。どんなふうに魅力的だったかと問われても、描写できる人はいない。アイバ・トグリの声は、低い、男のような、かすれ声で、いわゆる魅力的な声などではない』(P574)
 高額のインタビュー代目当てに、自分が東京ローズだと証言したアイバ・トグリ。インタビューした記者は、それをホットニュースにして世界のジャーナリズムに自分を売り込もうとする。そして大事になって、アイバ・トグリはアメリカで逮捕され、有罪となる。