十二世紀ルネサンス


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 12世紀ルネサンスにはローマ法の復活、ゴシック建築の成立、ポリフォニー音楽の成立など様々な側面がある。この本では著者の専門分野である『科学と哲学の問題を中心』(N90)に書かれる。
 12世紀はアラビアやビザンティンの学術文化を移入消化し、単なる消化に留まらない文化形態を創り上げた時代。著者はアラビアとの交流とアラビアから西欧への文明移転として捉える。当時の西欧世界にそれをするだけの基礎力が養われていたが、イスラム文明からの種子によって初めて実を結んだもので、日本の文明開化と似たようなもの。
 西欧とイスラムやビザンティンとの文明交流に焦点を当てて見る12世紀ルネサンス

 14世紀の西欧科学の勃興の背景にあるのが、12世紀ルネサンスでのアラビア科学との接触。その時まで西欧ではユークリッド幾何学プトレマイオス天文学)、ヒポクラテスやガレノス(医術)を知らず、アリストテレスボエティウスがラテン訳した論理学の「範疇論」「命題論」以外を知らなかった。
 その理由。『ギリシア学術の一番いいものはローマへ入らなかったのです。ローマへは五パーセントぐらいしか行っていない。ボエティウスがラテン訳した、わずかばかりのギリシア学術の断片、それにプリニウス(Plinius)やイシドルス(Isidorus)によって保存された百科全書的知識のような二流の物しか入らなかったのです。つまりギリシアの本当の学術というものは、ローマ人には理解できなかったのです。だからローマに入らない、したがってまたヨーロッパへも行かない、ということになります』(N191)。『純粋科学はほとんどローマ世界には入らなかったのです。たとえばユークリッドの著作もほんのわずかしかラテン訳されていない。アルキメデスプトレマイオスにいたっては、その痕跡もないほどです。』(N1470)なんとなくローマ崩壊後に失われたと思っていたが、そもそもローマに入っていなかったのか。それはちょっと意外。
 西欧は12世紀にアラビアやビザンティンを介して、ギリシアの第一級学術と初めて出会う。アラビア語を勉強してアラビアの科学や哲学の文献をラテン語に翻訳し、またギリシア語からも翻訳する。その大翻訳運動で進んだ学術成果をわがものとして、その後の発展の知的基盤を獲得した。
 『たんにギリシアの学術がアラビア訳されたのを、ラテン訳するだけではなく、優れたアラビアの学者の著作もたくさんラテン訳しました。アラビアの学術というのも、単なるギリシアの受け売りではないのです。』(N252)アラビア独自の学問や思想もヨーロッパに流入する。


 『東に向かった十字軍は、アラビア文化と接触しても、そこから文化交流の果実を生み出すということはあまりなかったのですが、西のレコンキスタはいささか事情が違っていたと思います。』(N578)12世紀ルネサンスのアラビア世界からラテン世界への文化伝達ルートにはならなかった十字軍、ルートになったレコンキスタレコンキスタでは戦いもあったが平和的共存状態もあり、文化交流も盛んだった。
 12世紀ルネサンスの拠点スペイン(トレード、アラゴン)、シチリアパレルモ)、北イタリア(ヴェネツィアやピサを中心とした)の3つ。トレードとアラゴンを別にすると4つ。
 「スペイン」トレードではアラビア文献をラテン訳する学校が作られ、アラビア化したキリスト教徒(モサラベ)や改宗ユダヤ人などの協力を得て翻訳していた。
 クレモナのゲラルドはプトレマイオスアルマゲスト」を読みたくてトレードに来る。実際に来てみたら、その他にもアルキメデスユークリッドなどギリシアの一流科学者やアラビアの有名科学者の本がある。それでアラビア語を勉強し75種の本をラテン語訳した。『十二世紀ルネサンスを代表する翻訳の巨人です。』(N630)
 「シチリアシチリアビザンティン帝国の一部だったが、878年にイスラムの領土になって、1006年からはノルマンに征服された。ノルマン王朝は現地のビザンティン人アラビア人ヨーロッパ人を区別せず扱い、ギリシア・ラテン・アラビアの3言語が公用語。そうした文化交流に適した地であり、歴代君主が文化愛好者であったこともあり、文化交流や翻訳などが盛んになされた。
 「北イタリア」東ローマのコンスタンティノープルとの密接な通商関係があったことから、12世紀ルネサンスの文化伝達の要地の一つとなった。ヴェネツィアのジャコモはアリストテレスの「分析論前書」「分析論後書」「トピカ」「詭弁論駁」をラテン訳し註釈をほどこした。その仕事で西欧世界でアリストテレスの論理学の全貌が初めてわかった。そしてその思想は西欧世界に大きな影響力を及ぼす。

 トレードで活躍した尊者ピエール(1094頃-1156)、28歳でクリュニー修道院の院長(シトーと並ぶ二大修道院の一方である、当時600ほどの修道院と1万の修道僧を抱えていたクリュニー派のトップ)となる。
 当時の西欧のイスラーム理解。「ローランの歌」にも多神教のような描かれ方をしており、『一般にイスラム多神教のように誤解されていました。こういう誤解はここだけではなく、十一世紀には広く流布していたのです。』(N2808)
 そのように西欧世界にはイスラームに対する正しい知識があまりに乏しかったので、尊者ピエール はイスラームを正しく認識するために『「トレード集成」(Collectio Toletana)という、イスラム文献の翻訳集を作ることを企画して実践するわけです。』(N723)
 尊者ピエールはカリンティアのヘルマン、チェスターのロバートに相当の報酬を払ってコーランをラテン訳させる。そして『トレードのペドロという、イスラムについてのアラビア語文献に詳しいキリスト教徒に依頼して、さまざまな史料に依ってムハンマドの生涯やイスラムの教義についてのラテン語の書物をつくらせます。この際ムハンマドというサラセン人(イスラム教徒)をもペドロの協力者につけて内容の正確を期している』(N736)。その他にラテン語チェックするポアチエのピエールと前記4人の計5人によって『当時のイスラム百科ともいうべきラテン語の「トレード集成」ができ上がる。』(N736)そしてその本が西欧人にとってイスラム理解のための重要資料となり、『ここではじめてヨーロッパのイスラム像というものがかなりはっきりしたものになり、それへの対応も的外れなものではなくなるわけです。』(N750)
 大部である「トレード集成」の要約として「サラセン異端大全」を著す。その「大全」で『長く混同されていたアッラーの神とムハンマドがはっきりと区別され、イスラムキリスト教と同様の一神教であることが、はじめて確認されたと言えるでしょう。』(N763)
 アデラードはアラビア語からユークリッド「原論」をラテン語訳。それ以前の西欧は3世紀のケンソリヌスや6世紀のボエティウスの訳『わずか『原論』第一巻の定義、公準、公理と若干の命題を含むだけの、誠に微々たるもので、その内容もずさんでした。』(N989)彼が訳すことで、ようやく西欧世界は『ユークリッドの厳密繊細な体系の全貌を知ったのです。以後『原論』は西欧世界で聖書についで読まれ、ヨーロッパ学術の典範となるほどの甚大なインパクトを与えました。』(N1002)
 12世紀ルネサンスで多くの哲学書がラテン訳された。では、それ以前の哲学書には何があったか。4世紀に訳されたプラトンティマイオス」、アリストテレスオルガノン」のうちの「範疇論」「命題論」のみと、アリストテレス「範疇論」の註釈であるポルフュリオス「イサゴーゲー」。他にも翻訳でない著作がいくつかある。『しかしこれらの著作はみなギリシア学術の余流を汲む二流の本』(N1096)だった。
 12世紀に入って訳された哲学書アリストテレス「分析論前書」「分析論後書」「自然学」「形而上学」、イブン・スィーナー「治癒の書」(哲学、自然学の書)などが訳されるやアル=キンディ、アル=ファーラビーの著作が訳される。『それまでギリシア・アラビアの学術のほんの五パーセントくらいしか西欧世界には知られていなかったのです。そしてその五パーセントの知識をいろいろこねくりまわして、なんとかやっていた状態でした。ですからここにおいて、知識財産の大変動が起るわけです。』(N1111)

 十三世紀西欧の大きな思想的な変革の背景には十二世紀ルネサンスでの大翻訳がある。『たしかに十三世紀は、アリストテレスやそれについてのアラビアの注釈書を完全に消化することによって、中世西欧の哲学、神学を根本から変えてしまいました。しかしこの変革の源泉はいったい何処にあったのかといえば、それは、言うまでもなく、それに先立つ十二世紀にギリシア、アラビアから、アリストテレスを中心とする諸々の思想がラテン訳されて、どっと入ってきたことが原因となっている』(N1393)。
 十二世紀ルネサンスの科学的側面、『この領域ではアラビアの影響というものがもっとストレートなはっきりした形で現れてきます。実際、西欧科学は十二世紀ルネサンスにおいて決定的な転換期に出遭うわけで、それまでユークリッドプトレマイオスアリストテレスの著作の大部分も知らなかった「暗黒の」西欧世界が、ここにギリシア、アラビアの第一級の学術をとりいれるようになってはじめて世界文明の辺境から脱出して、その後の西欧文明への離陸が開始されるわけのです。』(N1434)