詩という仕事について

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

 ボルヘスの1967-8年のアメリカでの全6回の講義の記録が後に見つかって書籍化されたもの。

 『「詩を汲む」。これこそ私の得た、いわゆる最終的な結論です。事実、空白のページを前にするたびに私は、文学は自分で再発見していくもの、という気がしています。』(P8)
 エマソンが図書館は死者が満ちあふれているが、それらの死者はページを開くことで甦ると書く。『バークリー主教についてですが、私の記憶によれば主教はリンゴの味覚はリンゴそのものには無く――リンゴ自体は味を持たない――リンゴを食する者の口の中にも無い。両者の接触が必要である、と書いています。一冊の書物、あるいは書物の集まり、図書館についても同じです。』(P10)リンゴのたとえ面白い。
 『詩の「初めて」の読みこそ本物であって、以後はその折りの感覚が、印象が繰り返させると信じられがちですが、私に言わせれば、それは単なる思い込みであり、記憶の単なるまやかしであり、今のわれわれの情熱とかつて抱いた情熱の単なる混同です。つまり詩は、一回限りの新しい経験であると言えるでしょう。私が一編の詩を読むたびに、その経験が新たに立ち現れる。そして、これこそが詩なのです。』(P14)
 『ソクラテスの亡くなったあと、プラトンはしきりに自問します。「さて、この私の疑問について、ソクラテスは何か言っているだろうか?」というわけで、敬愛する師の声をもう一度聞くために、プラトンは数多くの対話を書きとめました。(中略)その主要な目的は、ソクラテスが毒人参を飲んだにもかかわらず、なおかつ自分の傍らにあるという幻想を得ることであったと私は想像します。そしてそれが真実であると私は思います。私自身もこれまでに多くの師を持ちました。(中略)私もまた彼らの声を聞きたいと願います。彼らが考える通りのことを考えられるように、ささやかないたずらですが、時には彼らの声をまねてみることもあります。彼らは常に、私の周りにいるのです。』(P16-7)この一節、印象的。
 同じ言葉でも時代の移り変わり、ある作品で使われたことでイメージの変化(例としてドン・キホーテで使われた「ラ・マンチャ」などがあげられる)、翻訳で直訳されることなどで受ける印象が変わる。『言語は変化します。ラテン人たちはこの事実をよく心得ていましたが、読者もまた変化するのであって、このことは、ギリシア人たちの古い隠喩を思い出させます。いかなる人間も同じ河に入ることはできない、という隠喩もしくは真理』(P24)。河も流れ水が変わるが人も変わる、人も河のようにはかない存在と感じさせるもの。
 「2 隠喩」では『目と星、女性と花、時と河、生と夢、死と眠り、火と戦いなど』(P51)の文学では定番の隠喩について、それぞれいくつかの例を出したりしながら隠喩について語られる。
 『「怒りの出会い」という優れたものもあります。この隠喩が印象的である理由は、恐らく、出会いというものを考える場合、われわれが連想するのは仲間意識であり、友情であるからで、だからこそそこの対象的なもの、「怒り」の出会いが浮き出して来るのです。(P58)この2章で出された表現の中で特に印象に残った。
 逐語訳(直訳)によって生まれる美しさ。ヘブライ人は最上級を持たない。「もっとも優れた歌」といった言い方ができないので、「歌の中の歌」といい、「皇帝」や「もっとも高貴な王」の代わりに「王の中の王」と言っている。そうした表現は逐語訳だからこそでる美しさ。
 ドン・キホーテの『あの冒険や、騎士と従士の間で交わされる会話を信じているかどうか、私にも分かりませんが、しかし騎士自身のパーソナリティを信じていることは確かで、数々の冒険がセルバンテスによって編みだされたのも、ヒーローの性格をはっきりさせるためであったと、私は考えます。』(P149)ドン・キホーテシャーロック・ホームズ、描かれている物語を信じられるかとそのキャラクターのパーソナリティが信じられるかは別。非現実的に見えるエピソードのある物語を読むときは、そういう風に考えながら読むのがいいかもしれないな。そうすればよりそうしたキャラクターに魅力を感じられるだろうし、楽しめそうだ。
 「6 詩人の信条」では、ボルヘス自身の物を書き始めてからの失敗や現在の考えなどが語られる。