ベラ・チャスラフスカ 最も美しく

ベラ・チャスラフスカ 最も美しく (文春文庫)

ベラ・チャスラフスカ 最も美しく (文春文庫)

 kindleで読了。
 東京五輪メキシコ五輪体操の金メダリストベラ・チャスラフスカの伝記。プラハの春で改革路線を支持する「二千語宣言」に署名した。プラハの春後の「正常化時代」に署名者たちの多くはその宣言を撤回せざるをえなかった。そんな中で社会的地位が失われて生活が不自由になっても撤回しなかった少数の人間の一人。そんな姿勢もあってか、ビロード革命後は大統領顧問やチェコオリンピック委員会会長にも就任する。しかしそのあとにおこった息子マルティンが父(前夫)を傷害致死で死なせてしまう事件が起きたのもあって、精神に変調をきたした。
 著者が本書を書いた時は、そうした事情もあって直接会って話すことは不可能だったが、チェコでコーディネーター・通訳を務めてくれた人を通じていくつかの質問をして、回答を貰った。そこで二千語宣言を撤回しなかった理由を質問には『節義のために。それが正しいとする気持はその後も変わらなかったから』(N115)という回答を貰う。
 さまざまな人物に対するインタビューが多く収録されている。彼女をよく知る人、現役時代の国内外のライバルたち、彼女と交流があった日本の選手たち、プラハの春に関係した人々など。当時のさまざまな国の体操選手にインタビューがなされていて、当時の事やその後の事を聞けるのも面白い。そうしたインタビューの中で、色んな人々に及ぼしたプラハの春とその崩壊の影響などもいくらか書かれているのがいいね。
 社会主義国のアスリートは純粋培養というイメージがある。しかし少なくとも彼女の時代のチェコのオリンピック選手はそうではなく、彼女も働きながら学校を卒業した。代表クラスになっても普通に学校に行き、働いていた。
 チャスラフスカが二千語宣言を撤回しなかった理由について、オリンピックチャンピオンということが支えになって、それに恥じる生き方はできないという思いがあったのではないかと親しい複数人から指摘があった。彼女は政治好きではないが、そのような考えもあって撤回しなかった。
 「第二章 東洋の娘たち」でのベラ・チャスラフスカと交流が深い東京五輪の体操選手たちに対するインタビューも面白い。当時の日本の体操話や、選手引退後にも何かとあったチャスラフスカとの交流の話が面白い。
 メキシコ五輪直前に、プラハの春を終わらせるためソ連ワルシャワ機構軍が侵攻してきた。その時チャスラフスカは北モラビアの山奥の小屋に隠れて、3週間過ごす。そのように直前をろくに練習できず過ごしたのに金メダル取るってすごいな。
 二千語宣言を撤回しなかったため、幼い子供に体操を指導する仕事でわずかな報酬を得るほかなく苦労する。79-81年にメキシコでコーチをする。そして1980年代半ばには国際的な圧力やソ連ペレストロイカもあり、83年にようやく選手に対するコーチングできる場所に仕事を得て、ソウル五輪時はソウルに同行はしないものの国内での育成コーチになった。一方で家庭生活では両親と弟の死や、離婚があった。
 ビロード革命後、ハヴェル大統領からスポーツ担当大臣や駐日大使などのポストを提示されるも一旦は断る。しかし後に無給で医療・福祉担当の大統領顧問になり、熱心に働くことになる。
 1993年息子マルティンが酒場で父と口論になり、殴られて転倒した父が1月後に死亡する事件が起きた。その事件をきっかけに反ベラキャンペーンを一部大衆紙が行われた。それで多くの人からの誹謗中傷を受けて大きく精神的に弱って、入院することになった。
 多くの人のインタビューを通じて、60年代から70年代にかけての女子体操界の変化についても書かれる。チャスラフスカとコマネチ、時代を体現した二人の卓越した体操選手についても書かれる。
 メキシコ五輪ではチェコ侵攻のこともあり、ソ連選手団に冷たかった。クチンスカヤはその表情豊かで楽しげな『人としてもつ「内側からの輝き」』(N3265)でソ連体操選手の中でただ一人メキシコでも応援された。現在アメリカ在住で、90年代前半には日本でコーチもしていた。その日本でのコーチ時代の話も面白いね。